「米不足」に足をすくわれた田沼政権、引き金となった「天明の大飢饉」を悪化させた最大の要因 撮影/西股 総生(以下同) (画像1/12) 江戸時代に入ると各地で新田開発が進み、米の生産量は増えていったが…… (画像2/12) 群馬県長野原町にある鎌原(かんばら)観音堂。浅間山噴火によって大規模な土石流が起きた際、多くの村人達がここに集まって難を逃れた (画像3/12) 東北地方の農村から米が消えた原因は凶作だけではなかった (画像4/12) 仙台藩(伊達家)の領内でも飢饉は深刻であった (画像5/12) 麦畑の情景。秋に不作だと翌年の春先には米が払底する。初夏に収穫する麦は次の秋までをつなぐ食料でもあった (画像6/12) (画像7/12) 群馬県長野原町鎌原地区で、土石流の堆積層の中から掘り出された江戸時代の建物。穀物倉のようである (画像8/12) 小峰城から見渡した白河城下 (画像9/12) 盛岡城内に現存する米倉 (画像10/12) 田沼意次の墓所がある東京駒込の勝林寺 (画像11/12) 二条城に現存する米倉。城米は本来は兵粮米だったが、平和な時代には飢饉に備える備蓄米となった (画像12/12) 「米不足」に足をすくわれた田沼政権、引き金となった「天明の大飢饉」を悪化させた最大の要因 この写真の記事を読む