フェルメールが生涯を過ごしたデルフト
カラヴァッジョ様式の物語画から画家人生をスタートしたフェルメールのその後に大きな影響を与えたのが、当時のオランダの状況、そして生涯を過ごしたデルフトという土地柄でした。
1588年、ネーデルラント連邦共和国(=オランダ)はスペインとの長きにわたる戦争に勝って実質的に独立、独自のアジア航路を開拓するなどして豊かな国になっていました。
フェルメールは1632年、ハーグとロッテルダムの中間に位置するデルフトという町で生まれ、新教会(=プロテスタント)で洗礼を受けます。父親は町の中心地で宿屋と居酒屋、画商を営んでいました。
その生涯は詳しくわかっていませんが、15歳くらいに絵の修業をはじめ、1652年、20歳の時に父が死ぬと、美術商の仕事を引き継いだとされています。フェルメールが生涯に描いた絵は約60点と寡作だったのは、家業が忙しかったためという見方もあります。
翌年に画家組合に親方として入会し、裕福なカトリック家庭の娘・カタリーナ・ボルネスと結婚しました。この時にプロテスタントからカトリックに改宗したと思われます。
フェルメールは義母の家に同居し、2階にアトリエを構えて絵を制作しました。1654年に町の火薬庫の爆発事故があり、多くの画家がアムステルダムに移住するなか、フェルメールは生涯をデルフトで過ごし、1675年、43歳で亡くなります。
フェルメールが生涯を過ごしたデルフトは町の周囲に壁と堀がめぐらされていて敵からの防御に適していることから、オラニエ公ウィレム1世がこの地で戦争の指揮をとった場所です。
水運業で栄え、東インド会社の倉庫も置かれていました。フェルメールの絵によく登場するタピスリーは東インド会社のペルシャとの交易で流通したものです。絵には輸入品の中国の磁器や東洋の織物もよく登場します。また、当時人気の高かった日本の絹の打掛はオランダでも製造されるようになり、「ヤパンス・ロック(日本のガウン)」と呼ばれ室内着に用いられました。それが《天文学者》(1668年)、《地理学者》(1669年)で学者が来ているガウンです。
古き良き時代の姿を描いた《小路》(1658-59年)、20世紀のフランスの作家・プルーストが『失われた時を求めて』のなかで、「世界で最も美しい絵画」と絶賛した《デルフト眺望》(1659-60年頃)は現存するフェルメールの貴重な都市景観図です。いずれもデルフトを描いたもので、両作品には女性に抱かれたり、通りで遊んでいたりする子どもが描かれています。妻との間に14人の子どもをもうけたフェルメールが作品に子どもを登場させるのは珍しいことでした。
また《デルフト眺望》は、17世紀のオランダの伝統的風景画の色調とは異なり、代表作《牛乳を注ぐ女》(1658-59)のような鮮やかな色彩で朝の町を描き出しています。ここからもフェルメールのデルフトに対する深い愛情が伝わります。
デルフトで生涯を送ったことは、その後のフェルメールの画家人生に大きく影響を及ぼします。これについては次回解説します。
参考文献:
『フェルメール論 神話解体の試み』小林賴子/著(八坂書房)
『フェルメール作品集』小林賴子/著(東京美術)
『もっと知りたい フェルメール 生涯と作品』小林賴子/著(東京美術)
『西洋絵画の巨匠 (5) フェルメール』尾崎彰宏/著(小学館)
『フェルメール完全ガイド』小林賴子/著(普遊舎)
『フェルメール展2018公式図録』(産経新聞社)
『ネーデルラント美術の魅力 : ヤン・ファン・エイクからフェルメールへ』元木幸一・今井澄子・木川弘美・寺門臨太郎・尾崎彰宏・廣川暁生・青野純子/著(ありな書房)
『西洋絵画の歴史2 バロック・ロココの革新』高階秀爾/監修 高橋裕子/著(小学館)
『1時間でわかるカラヴァッジョ』宮下規久朗/著(宝島社)