徐々に心身のバランスが崩れる 

 芥川は、おそらく鷗外と同じのタイプの真面目すぎるほど真面目で、人の意見をうまく取り入れることができない人だったのではないかと思います。

 漱石の葬儀で鷗外と目があった瞬間、鷗外には「主題を求めてさまよう人」であるという自分と共通するものを感じ取ったのだと思います。

 ただし、鷗外は、文学一辺倒ではありません。

 医学や歴史、博物学者といってもいいくらい興味の対象が広く、博識です。それは留学によって支えられた大きな世界観によるものだと思います。このことは大きな違いです。

 おそらく芥川はそのことに気がついていたに違いありません。この時に、鷗外に「弟子にしてください」とお願いしていたら、鷗外は、広い世界を見ることの大切さを教えたでしょう。

 芥川が命を絶った昭和2年には友人・久米正雄や佐藤春夫をはじめ、多くの文人が世界へと出ていきました。芥川が彼らとともにヨーロッパやイギリス、アメリカに留学していたら、きっと誰にもかなわない、モーパッサンやサマセット・モームのような面白い小説を書き続けられた、と思わないではいられません。それが僕は残念で仕方がありません。

 芥川は鷗外と出会った後、漱石でもない、鷗外でもない新しい文芸の道を目指していきました。当時、田山花袋や島崎藤村など洗いざらいなんでも書くという自然主義文学がありましたが、芥川はそんなものではないと考え、深いところへ入ってしまって、そこから抜けられなくなります。

 大正11年(1922)年頃、つまり30歳くらいから、書かなければならないと焦れば焦るほど書けなくなり、神経衰弱と腸カタルにも罹ります。芥川は、げっそりと痩せ細って眠れなくなり、だんだん心身のバランスを崩して薬の量を増やしてしまうのです。

 自分で自分を塞いでしまって、本当に苦しくなる。そんな芥川を見て、先輩であり親交があった谷崎潤一郎は「あんな文章を書いていたら死ぬに決まっている」という趣旨の発言をしていたそうです。

 芥川がなぜ死に向かったかは、谷崎潤一郎と比べることでよくわかります。次回は芥川と谷崎の違いから、芥川が死に向かった理由を考えます。