上村愛子が期待する北京五輪、モーグル生島、川村の見どころは?(前編)

文=松原孝臣 写真=積紫乃

上村愛子

「明日死んでも後悔しないように」

 ワールドカップ総合優勝、世界選手権で男女を通じて日本初の2冠に輝くなど、上村愛子は世界のトップで闘ってきた。

 オリンピックも1998年長野大会から2014年ソチ大会まで5大会連続出場、そのすべてで入賞している。オリンピックについては日本でも有数の経験を持つ。でも、「オリンピックとは?」と尋ねると、一瞬、間が空いた。

「毎回、尋ねられると、答えるのが『難しい』と思います」

 そして競技生活について話し始めた。

「いつかは引退しないといけないけれど、『明日死んでも後悔しないようにしよう』と思ってやっていました」

 その覚悟は、次の話にも表れていた。

「例えば、時間があって母に会いに行けるけれど行かなくて、そのとき母あるいは私に何かあったら、一生後悔するじゃないですか。でも競技をやっているときは、練習していて会いに行けなかったり、スキーのために体を休めているときに母に何かあったとき会えなかったとしても、同じような後悔はしなかったというくらい、覚悟を持ってスキーをやっていました。265日、オフのときもあるけれど頭の中はいつもスキーを考えていたのが選手のときの時間です。命懸けというか、人生すべてを懸けてやっているというか」

 打ち込んだ、という言葉ではおさまらないくらいの姿勢で競技に向き合ってきた要因の1つは、周囲への思いだったかもしれない。

「16歳から世界大会に出て18歳で(長野)オリンピックに出て、その頃から応援してもらえていて、自分が何をしたいかとか自分で自分を認めるというより、みんなから見てもすごい選手じゃないといけないと思っていました」

1998年2月、長野五輪での上村愛子 写真=アフロスポーツ

「(2007-2008シーズンに)ワールドカップ総合優勝するくらいまでは、優勝したり表彰台に上がることもあったけれど、ここまで応援してくれた人たちの年月を考えると、足りないよなと思っていました」

 

「苦しかった」時期

 格闘を続けた競技生活の折々の節目となったのが、オリンピックだった。中でも「苦しかった」と振り返る時期がある。

「私の場合は精神的にやむかやまないかぎりぎりまで考えちゃうタイプだったから、ぎりぎりまでやらないと自信をもって『これをやっている』と言えないと思っていたし、トリノ、バンクーバ、その8年くらいはきつかったかな」

 ワールドカップで総合優勝したその翌シーズンには世界選手権で優勝。自分で自分を追い込むような過酷な日々を過ごして迎えたバンクーバーは、4位だった。

「またオリンピックでメダルが獲れなくて、『どうやって自分のやってきたことを腑に落とそう』と思いました」

 ひととき休養したあと、再び、「オリンピックを目指そう」と戻ってきた。再スタートのとき、変化が生まれていた。

「まわりがどうみているか、評価しているかではなく3年間でできることを現実的に逆算して、かえなければいけないこと、間に合わなくても焦らないことを考え、1年ごとに成績を出すより3年後に間に合わせようと思いました」