相次ぐ家族の死
同年8月15日、終戦を迎えると、嘉子は5月の空襲で被災し、川崎市へ移った両親のもとに戻った。
嘉子は明治女子専門学校の教壇に立ち、講義をするようになったが、苦難は続く。
昭和21年(1946)5月23日には、夫の芳夫が復員することなく、長崎の陸軍病院で病死。
翌昭和22年(1947)1月19日には母・ノブが脳溢血でこの世を去り、同年10月28日には父・貞雄も他界しまったのだ。
嘉子は、『追憶のひと三淵嘉子』所収の遺文「私の歩んだ裁判官の道――女性法相の先達として――」において、「夫が戦病死したので、経済的自立を考えなければならなくなった。それまでのお嬢さん芸のような甘えた気持から真剣に生きるための職業を考えたとき、私は弁護士より裁判官になりたいと思った」と述べている。
同年3月、嘉子は司法省人事課に赴き、「裁判官採用願」を提出した。
これを受け取ったのが、人事課長で、のちに最高裁判所長官となる石田和外である。石田は、松山ケンイチが演じる桂場等一郎のモデルではないかといわれる。
嘉子は裁判官への道に、大きな一歩を踏み出した。