価値ある花嫁切符を捨てて、法律の道へ
昭和2年(1927)4月、嘉子は競争率・約20倍の狭き門を突破し、東京女子高等師範学校附属女学校(現在のお茶の水女子大附属高校)に入学した。
入学して間もなく、嘉子には四人の友人に恵まれた。
そのうちの一人である堀きみ子の追想文によれば、嘉子は正義感がとても強く、他人の苦しみや悲しみに寄り添い、親身になって解決策を考えるような人物であった。
いわゆる「ガリ勉」ではなく、学生生活を謳歌し、卒業時には総代を務めたという(『追憶のひと三淵嘉子』所収 堀きみ子「青い鳥のチルチル」)。
当時は進学や就職をせず、花嫁修業をしつつ見合い結婚する女性もまだ多く、東京女子高等師範学校附属女学校の卒業証書は、「一流の花嫁切符」とも称されていた(青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』。
だが、嘉子は卒業が近づくと、この時代としては非常に進歩的な考えを持っていた父・貞雄のアドバイスを受け、法律を学ぶ決意を固める。
昭和7年(1932)4月、嘉子は明治大学専門部女子部(明治大学短期大学の前身)の法科に入学した。
明治大学女子部は法科と商科の二科があり、昭和4年(1929)に開校した。創設の中心人物の一人・穂積重遠は、ドラマで小林薫が演じた穂高重親のモデルではないかといわれる。
女性に門戸を開く大学がほとんどないなか、
嘉子の入学時はまだ、明治26年(1893)年に執行された弁護士法において、「日本臣民ニシテ民法上ノ能力ヲ有スル成年以上ノ男子タルコト」と定められており、弁護士資格が許されていたのは男性のみであった。
しかし、昭和8年(1933)、嘉子の女子部入学の翌年、弁護士法が改正され、女性の弁護士資格も認められるようになり、昭和11年(1936)から、女性も高等試験司法科の受験が可能となった。