短い結婚生活と戦争の嵐

 嘉子は、昭和16年(1941)11月5日に結婚した。

 ドラマの寅子の結婚相手は仲野太賀が演じた佐田優三であったが、嘉子の相手は武藤家で書生をしていた和田芳夫である。

 嘉子の二番目の弟・武藤輝彦の追想文によれば、和田芳夫は父・貞雄の中学時代の親友の従弟だ。

 貞雄の関連会社で働くかたわら、明治大学夜間部を卒業した努力家で、「周囲をながめて、最も好人物」であったという(『追憶のひと三淵嘉子』所収 武藤輝彦「あしあと」)。

 嘉子は「和田嘉子」となり、夫の芳夫と池袋のアパートで新婚生活をスタートさせた。

 だが、昭和18年(1943)1月1日に長男の和田芳武が誕生すると、嘉子の実家である麻布笄町の家で、嘉子の家族と同居するようになる。

 嘉子と芳夫は睦まじく、戦時中ではあったものの、幸せな日々を送っていたようだ。

 翌昭和19年(1944)2月には、麻布笄町の借家が、空襲による延焼を食い止めるための家居強制疎開の対象となったため、嘉子らは港区の高樹町に居を移した。

 同年6月には、武藤家の長男・一郎が、妻子を残して戦死している。

 同年8月、嘉子は明治女子専門学校(明治大学専門部女子部から改組)の助教授に昇進したが、翌昭和20年(1945)1月、夫の芳夫が召集され、上海へと渡った。

 同年3月には、幼い我が子・芳武と、亡き弟・一郎の妻と娘の四人で福島県坂下町(現在の河沼郡会津坂下町)に疎開した。

 嘉子は自ら鍬を振るい、田畑を耕すなど、生き延びるために必死で働いた。