源頼朝ゆかりの地

●大蔵幕府跡

大蔵幕府跡

 鶴岡八幡宮の北東、現在の清泉小学校の敷地を中心とする地域にあったと考えられている。頼朝は当初、亀谷(かめがやつ)にある父・義朝の旧邸宅(現在の寿福寺)に御所を作りたかったのだが、そこにはすでに義朝供養の堂が建っており、土地も狭いことなどから、大倉の地を選んだと伝わる。

 建物などの配置は、基本的に寝殿造を用いていた。敷地の東西南北には門が建てられ、正門は南御門(みなみみかど)であった。現在、西御門と東御門の跡地には、石碑が置かれている。

 源氏三代(頼朝、頼家、実朝)が、この地で政務を執り行い、嘉禄元年(1225)12月に宇津宮辻子(うつのみやずし/鎌倉市小町)へ移るまで、約45年にわたって幕政の中心の役割を果たした。大倉幕府の周辺には、有力な御家人の屋敷が軒を連ねていたという。

 鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によれば、頼朝は治承4年12月12日、仮の住居から大倉の御所に転居する「移徙(わたまし)の儀式」を行っている。このとき、義時を含む311人の武士たちが出仕しており、彼らは侍所で二列に向かい合い、着座した。のちに十三人の合議制のメンバーとなる和田義盛が311人の武士たちの名を記帳し、この儀式からのち、東国の人々は頼朝を「鎌倉の主」として推戴するようになったという。これをもって、頼朝は「鎌倉殿」となり、武士たちは鎌倉殿を仰ぐ「御家人」となったとされる。

 現在。清泉小学校の角には大倉幕府舊蹟(大倉幕府跡)の石碑が佇み、その歴史を今に伝えている。

 

●白旗神社

白旗神社

 大倉幕府舊蹟碑(大倉幕府跡)を北上すると、「源頼朝の墓」へと続く石段にぶつかる。この石段の麓、「法華堂跡」の石碑の後ろに鎮座するのが、白旗神社である。その名の通り白旗が靡くこの神社は、源頼朝を祀っている。

 白旗神社の歴史は少しばかり複雑なので、順を追って説明しよう。

 まず、石段上に建つ「源頼朝の墓」の付近には、頼朝の持仏堂であった「法華堂」があり、頼朝が正治元年(1199)に53歳で急死すると、ここに葬られた。頼朝の墓所として、法華堂は武士たちに厚く信仰された。

 法華堂は、建暦3年(1213)の和田合戦では三代将軍・源実朝が避難し、宝治元年(1247)の宝治合戦では、ここに立て籠もった三浦一族・郎党500人が自害するなど、歴史の舞台にも重要な場面で登場している。

 やがて頼朝の墓付近の法華堂は、江戸時代の初めには姿を消したといわれ、1663年現在の白旗神社の場所に寺院としての法華堂が建てられた。

 その後、鶴岡八幡宮の供僧・相承院(そうしょういん)が兼務し、祭祀を続けていたが、明治時代になると、政府の神仏分離政策により、法華堂は壊され、白旗神社が新たに造られたのだ。

 境内は、後述する頼朝の墓も含め、「法華堂旧跡」として国指定史跡となっている。なお、源頼朝と実朝を祀った同名の神社が、鶴岡八幡宮境内にも存在する。

 

●源頼朝の墓

源頼朝の墓

  白旗神社の横の石段を上がると、玉垣に囲まれた総高186㎝の五重層塔がある。それが、「源頼朝の墓」である。日本初となる武家政権を打ち立てた人物の墓としては、些か質素な印象だ。

 層塔は、江戸後期の薩摩藩主・島津重豪(しげひで)が、安永8年(1779)に、大御堂(勝長寿院)から移したものだと伝わり、層塔の前の線香立てには、島津氏の紋がみられる。

 頼朝の墓の近くには、十三人の合議制メンバーの一人・大江広元と、広元の四男で毛利氏初代となった毛利季光の墓とともに、島津氏初代・島津忠久の墓も建っている。島津忠久の墓も島津重豪が整備したものだが、この島津忠久には、頼朝の落胤説が存在する。忠久の母・丹後局は、頼朝の寵愛を受けたが、その妻・北条政子の嫉妬を恐れて西国へ逃げ、忠久を産んだというのだ。島津重豪も、頼朝の子孫と称していたという。

 最後に、頼朝の墓にまつわるちょっとした謎を、ご紹介しよう。

 頼朝の墓へ続く石段の数は、頼朝の享年と同じ53である。符号させたのか、偶然なのか――確かなことはわかっていない。