文=中野香織

服飾史家の中野香織さんによる、「モードと社会」との関係性を考察する新連載コラム。その第1回目は、コロナの時代においてこれからのラグジュアリーカンパニーやクリエーターが果たすべき社会的責任について、3編にわけてお届けしよう。

 

 コロナ禍が始まって以来、事態があまりにも急速に展開し、書いた原稿が1週間後には時代感覚とずれてしまうほどのんびりとしたものに見えるということが何度もあった。とりわけ2020年3月~4月には予想をはるかに超えて、日に日に事態が深刻化していた。

 この原稿を書いているのは5月第3週前半で、緊急事態宣言が解除に向かう兆しは見えているが、専門家が第二波、第三波の到来も警告するなか、本当の意味での終息はいつになるのか、予想がつかない。

 多くの企業が事業を再開し始めてはいるものの、少なくともまだ新型ウィルス流行の渦中から脱出しきってはいない。世界の経済活動を停止させたCOVID-19の蔓延は、これまで私たちが見て見ぬふりをしてきた多くの問題をあぶり出した。あるいはなんとかしなくてはと思いながらも先送りにしてきた多くの課題を急速に前に進めた。

 モードをとりまく事情においても例外ではない。経済活動が休止した期間に、コロナ前から引き延ばしになっていた疑問や課題があらためて強く意識されるにいたった。これから築いていく「新・日常」を以前よりも幸福なものにするために、危機の最中に起きたことや考えたことを整理しておきたい。

 

コロナがもたらした光景

 2月末のパリコレクションを最後に、人が集まって行われるファッションショーや展示会はすべて中止された。3月、4月には店舗もクローズされ、すでに生産されている2020年春夏コレクションは、ECサイトで販売されたものを除き、多くは実際に店頭に飾られることもないまま在庫にある。ブランドの旗艦店が並ぶ表参道や銀座は、ゴーストタウンと化した。いくつかのブランドの店舗からは全商品が撤収され、ガラス越しにがらんどうの店内だけが寒々と見える。

 店舗ばかりか縫製工場も2か月近く休業を強いられた。メディア、とりわけ紙媒体のファッション誌は広告収入が大幅に減少するうえ、リモートワーク中の撮影や取材がままならないまま、2~3か月分をまとめて合併号とすることで苦境をしのいでいる。

 消費者サイドにしても、在宅ワークを命じられたり式典が中止されたり社交・旅行が制限されているので、高価なアパレル商品を買う動機も薄れてしまった。米「ヴォーグ」編集長のアナ・ウィンターがジャージ姿でリモートワークをする写真を披露したことにより、一時、衝撃が広がったが、モデルらも後に続き、ファッションを生業にする者でも在宅仕事ではこのスタイルでいいというムードが広がった。

 このような「ファッションどころではない」危機に投げ込まれ、従来の発表・生産・PR・販売の慣習が突然せきとめられた。21世紀に入ってから加速がかかっていたモードのサイクルは、一旦停止を余儀なくされた。2か月から3か月にわたる事業休止を強いられた企業の経営者やデザイナーは、それぞれの立場、あるいは哲学に応じて多様な反応を示した。
 「人間主義的資本主義」を標榜するブルネロ・クチネリ氏は、3月中旬、いちはやく、顧客と取引先、そして社員に「春の便り」を送った。歴史や自然界の事象に思いを馳せる詩的なことばで綴られる「春の便り」は、じわりと心に響いた。なかでも次のような一節はいかにもクチネリ氏らしかった。

コロナ禍の犠牲者たちに哀悼の意を捧げるともに、世界をよりよい方向に前進させるための新しい生き方を提言したブルネロ・クチネリ氏。イタリア・ウンブリア州の緑豊かな村、ソロメオにあるファクトリーは、少しづつその稼働を再開させている

 「今日の苦悩の中にも、我々をより精進させる道徳的反応といった良い面がある。そして明日、今の苦悩が記憶と共に朽ち果てる時、この時期を思い返して『天災にも魂はある。賢明な人生の師になり得るのだ』というアリストテレスの言を心に刻みたい」。

 哲学者の顔を持つ経営者ならではの言葉である。実際、この手紙とほぼ前後して、「我々をより精進させる道徳的反応」に近い反応が、モード界に続々、現出した。