三浦義村のその後と、三浦氏滅亡
最後に、ドラマで人気が高かった三浦義村のその後と、三浦氏の滅亡をご紹介したい。
元仁元年(1224)6月13日、「盟友」北条義時が没すると、22日に義村は追善仏事を主催している。
義時に続き、大江広元、北条政子も他界。
幕府草創期を知る唯一の宿老となった義村は、北条泰時が設置した幕政の最高機関である評定衆のメンバーに、名を連ねている。
政治面で泰時を支えたのは、連署となった叔父の北条時房と三浦義村だったという (野口実編著『図説 鎌倉北条氏』 田辺旬「北条泰時」)。
暦仁元年(1238)2月、4代将軍・頼経が鎌倉下向してから初めて上洛した。
その際に義村は頼経の行列の先陣を務めるなどして、威容を示した。この上洛は、義村の一世一代の晴れ舞台だったという(『新横須賀市史 通史篇』)。
翌延応元年(1239)12月に義村は没した。享年は不明だが、70~70代半ばと推測されている。
義村の死から、8年後の宝治元年(1247)6月、盟友・北条義時の曾孫にあたる北条時頼によって、三浦本宗家は滅ぼされた(宝治合戦)。
義村が生きていれば、滅亡は防げたのだろうか。