名執権・北条泰時
泰時は、政子がいわゆる「尼将軍」として後見していた、当時8歳だった三寅(将軍候補として2歳で鎌倉に迎えられた、田中直樹が演じた九条兼実の曾孫)を元服させ、翌嘉禄2年(1226)、4代目の征夷大将軍に就任させた。三寅は「頼経」と名を改めた。
そして、北条一門や有力御家人らの合議である評定衆を設置。貞永元年(1232)8月には泰時主導のもと、最初の武家法典「御成敗式目(貞永式目)」を発布し、裁判の公正化を図った。泰時の時代、執権政治は全盛を迎えた。
延応元年(1239)2月には、尾上松也が演じた後鳥羽上皇が、京に返り咲くことなく、配流地の隠岐で死を迎えた。享年60。
同年の12月には、三浦義村がついにこの世を去った。脳卒中による急死だった。
三浦の家督は義村の子・三浦泰村が継いだ。泰村は北条泰時の娘を妻としている。
翌延応2年(1240)正月には、瀬戸康史が演じたトキューサこと北条時房も、66歳で没した。
2年後の仁治3年(1242)6月には、北条泰時も60歳で、この世を去った。
泰時の18年におよぶ治世は、大きな合戦や抗争はなく、安定していた。
だが、泰時の没後、一般に「執権派」と「将軍派」と呼ばれる派閥間の抗争が勃発する。