寛元の政変(宮騒動)、将軍追放

 寛元の政変(宮騒動)とは、前将軍・頼経(大殿)と朝時の子・北条(名越)光時による、執権・時頼を排除しようとする計画が、寛元4年(1246)5月に発覚、光時は出家・配流に追い込まれ、同年7月、頼経が京都に送還された事件である。

 この政変は、名越流をはじめとする将軍派に、打撃を与えた。

 時頼の外祖父は、新名基浩が演じた安達景盛(野添義弘が演じた安達盛長の子)であるが、寛元の政変も、後述する「宝治合戦」も、安達氏が主導していたともいわれる。

 寛元の政変後、幕府は時頼を中心に運営された。

 建長4年(1252)には、5代将軍・九条頼嗣も、謀反に関わったとして京都へ追放された。

 6代目からは、親王を将軍に迎えることになる。

 将軍は装飾的な存在と化し、得宗が幕府の実質的トップとなった。執権と連署は代々北条氏のみが就き、北条氏の所領は全国に拡大した。

 

鎌倉幕府滅亡

 北条氏の栄華の終焉と、鎌倉幕府の滅亡は、後醍醐天皇の登場によって、突然に訪れた。

 後醍醐は、自分の子孫に皇位を継承させたいと強く願っていた。

 だが、当時は、「両統迭立(大覚寺統と持明院統の2つの皇統が、交互に皇位に就くこと。鎌倉幕府が提示)」を原則としていたため、不可能だった。

 後醍醐が自分の血統に皇位を継承させるためには、両統迭立と、それを支持する鎌倉幕府を打倒しなければならなかった(鈴木由美『中先代の乱』)。

 後醍醐は倒幕を決意し、後醍醐の北条氏追悼の綸旨を受けた足利高氏(のちの尊氏)が、元弘3年(正慶2年 1333)5月7日、幕府の西国統治機関である六波羅探題を攻略

 5月8日には新田義貞が、上野国新田庄(群馬県太田市)で挙兵し、結集した多くの東国御家人とともに、鎌倉へ進軍。5月22日に鎌倉を陥落させた。

 最後の得宗・北条高時をはじめ、北条一門および被官らが、北条氏代々の墓所である東勝寺で自害。

鎌倉にある、北条高時切腹やぐら

 5月25日には、筑前博多(福岡市)に設置した幕府の九州統治機関・鎮西探題も、九州の武士たちの総攻撃を浴び、滅びた。

 鎌倉幕府は滅亡し、北条氏の栄華も終焉を迎えたのだった。