文=鷹橋 忍
最初の妻は不明?
大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』では、菊地凛子演じる「のえ」が北条義時の新しい妻となった。
そこで今回は、ドラマに登場した義時の三人の妻たちを取り上げたい。
まず、ドラマで義時の最初の妻とされたのは、ガッキーこと新垣結衣が演じた八重だ。八重は、ドラマでは坂口健太郎演じる北条泰時の母親でもある。
だが、鎌倉幕府の公的な歴史書である『吾妻鏡』には、八重が義時の妻であったという記載は見当たらず、泰時の母親も「阿波局」という、御所に務める官女であること以外は、よくわかっていない。
しかし、ドラマの時代考証を務める坂井孝一氏は、八重は義時の最初の妻で泰時の母であったとう仮説を立てており(『鎌倉殿と執権北条氏』、『考証 鎌倉殿をめぐる人々』)、今後、明らかになっていくかもしれない。
比奈(姫の前)の子どもたちと再婚相手
『吾妻鏡』に義時の妻として登場するのは、ドラマでは堀田真由が演じた姫の前(ドラマでは比奈)である。実名は定かでない。
父親は、草笛光子が演じた比企尼の子・比企朝宗だ。つまり、姫の前は比企尼の孫にあたる。
『吾妻鏡』建久3年(1192)9月25日によれば、姫の前は幕府の官女であった。容姿が大変に美しく、源頼朝のお気に入りで、「権威無双の女房」と称されていた。
ドラマでは、姫の前(比奈)が先に義時に好意を抱いていたが、『吾妻鏡』に描かれる恋愛模様はドラマとは逆である。
義時が先に姫の前を見染め、一、二年ほど盛んに恋文を送ったが、いっこうに相手にされなかった。
それを聞き付けた源頼朝が、義時に「絶対に離別しないこと」を誓った起請文を書かせたうえで、姫の前に義時のもとへ行くよう命じたという。
かくして、義時は姫の前を妻に迎えた。義時、30歳のときのことである。
前妻の泰時の母が、身分が低く妾だったと思われるのに対し、姫の前は、その出自から、おそらく義時の正室の座についたと考えられる。
二人の間には、建久5年(1194)に北条朝時(ともとき)、建久9年(1198)に北条重時の男子が誕生している。
朝時は義時の二男で、名越流北条氏の祖である。朝時が祖父・北条時政の邸宅である名越邸を継承したことから、名越流と称された。
朝時は北条氏嫡流を自認していたといわれ、兄の泰時との関係も良好ではなかった
朝時は父・義時の死後、北条氏の家督を継ぎ執権となった泰時に対抗するようになり、朝時の子孫の名越流の人々も、得宗(北条氏家督)に対して、鎌倉時代の後期まで反抗的であった。
重時は義時の三男である。晩年を極楽寺の別業(別荘)で過ごしており、「極楽寺殿」とも呼ばれた。重時の系統は極楽寺流と称され、北条氏のなかでも家格が高く、鎌倉幕府の要職に就くことができた。
このように子宝にも恵まれた姫の前であるが、建仁3年(1203)9月に北条氏が姫の前の実家の比企氏を滅ぼした「比企氏の乱」の前後に、義時のもとを去っている。
『鎌倉殿の13人』北条氏最大のライバル・比企能員の生涯と一族の運命
ドラマでも描かれたように姫の前が身を引いたのか、それとも、義時が離別を言い渡したのかはわからない。
いずれにせよ、姫の前は鎌倉をあとにして上洛した。そして、藤原定家の日記『明月記』によれば、村上源氏俊房流で勅撰歌人の源具親に再嫁し、具親の子・輔通を生んでいる。姫の前が源具親に嫁いだのは、比企氏の乱が勃発した建仁3年の末頃だと思われる(森幸夫『北条重時』)。
しかし、姫の前が具親の妻でいられた時間は長くはなかった。
『明月記』建永2年(1207)3月30日条には、前日の3月29日に具親の妻が亡くなったことが記されているのだ。比企氏の乱から4年後、おそらく三十代での死だと見られている。
北条氏と比企氏の権力抗争に翻弄された人生であったが、ドラマのように、義時とは心を通わせていたと信じたい。