建築界に議論を巻き起こした東京国立博物館
「審査される側」と「審査する側」、「選ばれる側」と「選ぶ側」という構図、これは建築においては設計コンペに他ならない。
建築の世界において設計者を選出する設計競技は、過去これまで国内外に問わず、それこそ星の数ほど開催されてきており、その選出については、様々なドラマや事件を生み出してきた。この連載においても以前、ザハ・ハディドの《新国立競技場》《新国立競技場》案をめぐるスッタモンダを取り上げた。
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今回紹介する《東京帝室博物館本館(現東京国立博物館本館)》も、この《新国立競技場》同様、コンペをめぐって建築界に大きな議論を巻き起こした作品である。
このコンペは1930年(昭和5)、その2年前に執り行われた天皇即位の大礼を機に震災復興事業の一環として、関東大震災によって大きな被害を受けてしまった初代《東京帝室博物館本館》(設計はジョサイア・コンドル)の建直し計画として実施された。応募数273案において、1等当選したのが現在の《東京国立博物館本館》の原案となる渡辺仁による提案であった。
実はこのコンペ、その募集規定において既に、主催者である宮内省によって平面図が示されおり、「様式は内容と調和を保つ必要あるので日本趣味を基調とする東洋式とすること」という要項のもと、立面や詳細のデザインの優劣によって評価するものであった。また、実施設計も宮内省に委嘱され、当選者の関与は認められていなかった。
それゆえか、応募案はいずれも和風の屋根や意匠を意識したいわゆる『帝冠様式』が取り入れられており、渡辺案も水平に長い鉄骨鉄筋コンクリート二階建てに瓦屋根が被せられたような構成になっており、この《東京国立博物館本館》は現在では『帝冠様式』の代表例の1つとなっている(ちなみに現状の車寄せ庇の切妻屋根はコンペ案当初には無く、実施設計段階で付けられたようだ)。そして、この『帝冠様式』こそが後々大きな議論、批評の的となるのである。
というのも、このコンペにあたって、
さらには、コルビュジェ事務所を経てパリから帰国したばかりの前川國男も、敢えて落選覚悟の上、要項を無視したモダニズムのデザインを提出したのだ。しかも、審査結果発表後、「態(ざま)見やがれ!」で始まる『負ければ賊軍』という文章を雑誌で発表し、たとえ負け戦だとわかっていても、権威へ挑戦することこそ自分たちの役割ではないかと主張した。これにより前川國男は、「モダニズムの信念を貫き、みごと落選を果たした」として英雄視されることになったのだ。
これらのエピソードが物語るように、戦後、「帝冠様式は国粋主義のイデオロギーを具現化したので悪」、「モダニズムは民主主義、ヒューマニズムの建築だから善」というような図式によって帝冠様式は断罪されてしまい、同様に渡辺仁デザインの《東京帝室博物館本館》も批判の対象となってしまったのである。