文=平松 洋

ディエゴ・ベラスケス『鏡を見るヴィーナス』1647~51年頃、キャンヴァスに油彩 ロンドン、ナショナル・ギャラリー

プロローグ:連載を始めるにあたって

 北大路魯山人の好エッセイ『料理芝居』によると、良寛和尚は「好まぬものが三つある」として、「歌詠みの歌」と「書家の書」と「料理屋の料理」を挙げたそうだ。魯山人は、これをいたく気に入ったようで、「その通りその通りと、なんべんでも声を大にしたい」と大絶賛したあと、勢い余って、良寛和尚が言ってもいない「画家の絵」までも、この部類にいれている。そして、いずれも皆、大したものでないことは、日ごろから切実に感じていると豪語するのである。

 美術評論家の端くれとしては、「画家の絵」まで批判されたのでは黙っていられない。ここは文句のひとつも言いたいところである。しかし、大したものでないとされた「画家の絵」を飯の種にする「美術評論家の評論」など、輪をかけて「大したものではない」と一笑に付されるのがオチだろう。

 筆者が言うのもなんだが、実際問題、専門化が進み、業界でしか通じない術語が叛乱する評論は、読みづらく、面白いとはひいき目にも言えない。そのため最近では、書店で目につく美術書の執筆者は、専門の美術史家でも、美術評論家でもなく、独文学者だったり、理系の研究者だったりするのである。

 しかし、センセーショナルな謳い文句が踊り、面白可笑しく書かれた書籍の多くに、専門家からみると、数多くの間違いや偏見があるとしたらどうだろう。間違っていても、個人の感想なのだからいい、面白ければいいということになるのだろうか。

 実は、そもそも魯山人の主張とは、専門化による弊害を問題にしていたわけではない。彼によると、専門家が作った「料理屋の料理」や「書家の書」というのは、家庭の料理や手紙の書とは違って、真実ではなく、美化し、形式化して、虚飾で騙している「芝居」に他ならないというのだ。良寛和尚が嫌ったのは、まさにこの虚飾性だったのである。そうであるなら、虚飾を廃し、真実にこだわる美術史家や一部の美術評論家たちの言説とは、まさに「家庭料理」や「手紙の書」であり、それを、虚飾で面白可笑しくリライトしている「素人美術評論家の評論」こそが、「料理屋の料理」ではないだろうか?

 良寛が嫌った「料理屋の料理」を、魯山人は、社会には「芝居」が必要だとして、「料理の芝居」と位置付けて再評価している。しかし、そこに二つの苦言を呈することを忘れてはいない。それは、まずい芝居でないこと、さらに、間違った芝居はなおさらよろしくないと言っているのだ。

 さてさて、プロローグが長くなってしまったが、この連載は、もちろんプロとして、「料理屋の料理」「料理の芝居」を目指すべきなのだろう。しかし、良寛和尚に共感する筆者には、虚飾に満ちた料理は提供できそうにない。しかし、最低でも、まずくはなく、間違ってはいない料理を提供したいと考えている。どんな包丁さばきになるかは、乞うご期待として、ご注意いただきたい点が一つある。それは、隠し味として、少々、毒が含まれていることである。ご了承の上、ご賞味いただきたい。