ネット書評が明らかにしたタイトルへの偏見

 もう8年も前になるだろうか、ルネサンスからエコール・ド・パリまで、西洋絵画の中でも裸婦を描いた名画(図1)を集めた本を出版したことがある。この書籍のアマゾンの批評欄に、デザインではアルファベットなどでカッコよくあしらっているのに、作品の「原題」が載っていないのはおかしいといった内容の批判が書き込まれたのだ。

 批判者によると、この「原題」記載がないことが、作品をきちんと調べようとする態度ではなく、お里が知れるといった主張であった。しかし、他の人の書籍も見てほしいのだが、こうした解説書には通常、アルファベット? の「原題」が記載されることはない。この批判が掲載されたあと、現在までに52人もの人たちが、その評価が参考になったとクリックしているので、どうやら批判者だけではなく、多くの人たちがその理由を分かっていないようなのだ。

図1:ディエゴ・ベラスケス『鏡を見るヴィーナス』 ※この書籍で取り上げた裸婦画のひとつですが、この作品の「原題」とは何になるでしょう。答えは、次回の連載で明らかにします。

 西洋絵画の偏見を正そうという、栄えある連載の第1回は、この「原題」=「タイトル」の偏見を暴くとともに、西洋絵画における作品タイトルの意味を考えていこうと思う。実は、こうした「タイトル」に対する「偏見」が、実際に存在していることを分からせてくれたのがこの投稿であり、非常に感謝している。講演会でもよく取り上げさせていただいているので、ここにお礼を述べておきたい。と、大人の対応ができるようになったのは、やっと最近のことで、正直に言うと、この投稿を最初に目にした時は、頭に血が上り、烈火のごとく怒ったものである。

 はあ~、アルファベットの「原題」って、何のことだ。意味が解らん。現地語のタイトルってことか。だったら、イタリア語、フランス語、オランダ語、ドイツ語、スペイン語で書けってことになる。じゃあ、ロシアやブルガリアの画家の作品を取り上げたらキリル文字だぞ。すべてを誰が読めるっていうんだ。それとも、この批判者は全部、英語タイトルにしろっていうのか。いやいや、それもおかしいだろ。そもそもイギリスは美術後進国で、この本でも取り上げてるのは10点にも満たない。英語タイトルを掲載することは、その多くは、批判者自身が言っている「原題」じゃなくって、英語圏の人間が翻訳した「翻訳語」じゃないか。そもそもイタリアやフランドル、ドイツが中心のルネサンス絵画のタイトルを英語で書けっていうのか。卑屈な英語中心主義もここに極まれりだな。グローバリズムは本来、文化多元主義のはずだろ。それが哀れな英米中心主義とは、ホント情けない・・・。

 とまあ、激昂して、むきになり、パソコンの画面に向かって、ひとり叫んでいた次第である。しかし、冷静になって、よく読めば、批判者は、そんな細かいことまで考えて批判しているのではなく、常識だと思っているある信念に基づいて語っていたにすぎないのだ。つまり、批判者とこれに共感した人々は、「タイトル」というものには、国際標準的な「原題」が存在している。あるいは、言語は違っていても世界的に全く同じ「意味」のタイトルが流通していると素朴に思い込んでいるのである。さらに言うと、その根底には、芸術作品には、タイトルというものが当然のように存在すると、考えているようなのである。

 

元来、西洋美術にはタイトルがなかった!?

 こうした「偏見」がどうして生まれたのかは、想像に難くない。それは多分、近代以降の画家の作品を頭に思い浮かべているからである。近現代になると、画家自身が作品タイトルをつけているため、そのタイトルは絶対的で、どの言語に訳すにしても、これが基本になっている。しかも、画家がタイトルをつけたくない場合でも、「無題」がタイトルとなり、基本的に「無タイトル」の作品にはお目にかかれない。つまり、近現代作家の作品においては、タイトルがあるのが当たり前で、しかも、画家自身が名付けたという意味での「原題」が存在しているのである。先の批判者たちは、これを普通だと考え、すべての西洋絵画に「原題」が存在すると信じ込んでいるのである。

 ところが、私の書籍でとりあげているのは、ルネサンス以降の作品で、そのほとんどは、画家自身が作品タイトルをつけたものではない。要するに、「原題」がどうのこうのという以前に、取り上げた絵画の多くは、いわば「無題」ならぬ「無タイトル」だったのである。

 こういうと驚かれる人が多いのだが、そもそも西洋絵画には、画家自身がタイトルをつけるという習慣はなかったのである。画家自らが自分の作品にタイトルをつけるようになったのは、18世紀以降のことなのだ。これは、サロン(官展)(図2)などの展覧会へ画家が出品するようになり、作品同定のためにタイトルが必要になったからである。

図2:ピエトロ・アントニオ・マルティーニ 『1787年のルーヴル宮のサロン展』1787年、エッチング フランス国立図書館蔵

 それ以前に画家自身がタイトルをつける必要がなかったのは、多くの場合、絵画は発注芸術であり、何を描いてほしいかは教会や王侯貴族などの意向で、最初に決まっていたからである。だったら、タイトルがあるということになるかもしれないが、それはタイトルではなく、絵の内容、つまり、主題が決められていたにすぎない。さらに、王侯貴族や教会は、その絵にわざわざタイトルをつける必要もなかったのである。つまり、「寝室に飾っているヴィーナスの絵」であるとか、「祭壇を飾る受胎告知のマリアの絵」として、場所とだいたいの内容を言えば、絵が同定できたからだ。

 もちろん、教会や王侯貴族の作品においても、「タイトル」が必要となる場合がある。それは、絵が動産として取り扱われ、移動の可能性がある場面である。この場合は、財産としての同定が必要となり、まさに、インデックスとして管財人などが、絵の内容を見て暫定的なタイトルを付けたのである。

 また、教会に飾られた絵など、多くの人々がその絵を鑑賞し、話題になると、自然と「通称」が付けられるようになる。さらに、芸術作品を批評する評論が登場すると、文字情報として絵を同定する必要から、場所と主題によってタイトル的なものが付けられるが、これらも、いわば「通称」でしかない。

 では現在、付けられている18世紀以前の作品タイトルとは、何かというと、特に有名な作品については、広く流通している「通称」をそのままタイトルとしたものもあるが、その多くは、研究者が、財産リストや通称を参考にしつつも、主に「主題」をタイトル化したものがほとんどである。つまり、描かれている内容を吟味して、タイトルをつけているのである。したがって、作品タイトルというのは、時代によっても、研究者や研究機関、収蔵館によっても違っていて当たり前で、批判者たちが考えているような「原題」など、どこにも存在しなかったのである。

 そうなると、日本語のタイトルはどうやってつけているのかと疑問に思われる方も多いだろう。次回は、具体的な作品を取り上げ、筆者がどのようにして作品タイトルを決定しているかを明らかにしたい。