ティノ・セーガルは1976 年、ロンドン生まれ。現在ベルリンを拠点に活動している世界的に高い評価を受けている芸術家だ。彼の作品は、絵画や彫刻ではなく、パフォーマンス。演劇に近い。ティノ・セーガルの作品が10月4日から11月4日まで、写真家 杉本博司氏の構想から生まれた小田原の複合文化施設「江之浦測候所」にて公開中だ。そして、我々、autograph取材陣は、オープニングの10月4日に催されたメディア向けのレセプションに参加し、いち早く、最新のティノ・セーガルの作品を体験してきた。

 江之浦測候所は、芦ノ湖から東へ10kmほど。相模湾に面した断崖の上、と表現したくなる場所にある。特徴的なガラスの能舞台はフェンスなどもなく海にむかって突き出していて、近づくだけで足がすくむ。ティノ・セーガルのこのほどの作品は、この舞台から少し行った、やはり断崖の手前にある、野点席で繰り広げられていた。

 ティノ・セーガルは作品を写真や動画におさめることをよしとしない。それは、本人のいうところによると、写真や動画で見ると、人は、作品がわかった気持ちになってしまう。しかし、写真や動画はビジュアルアート。基本的に2次元の表現。いっぽうティノ・セーガルの作品は4次元のもので(ドラえもん的な4次元ではなく空間+時間の4次元とおもわれる)、ゆえに写真や動画といった媒体にとらわれると質的にちがったものになってしまう、という理由による。

 とはいえ、文字による彼の作品の描写であれば想像の余地が大きいし、許容できるというので、手っ取り早く動画で、ともいかず、どんなパフォーマンスかは筆者が、これから文章で書いてみる。ちなみに、本人は作品のことをパフォーマンスではなく、「ライブワーク」といい、このライブワークを演じる役者を「インタープリター」(通訳)と呼ぶ。せっかくなので、以下、この作者による語彙を用いる。

江之浦測候所の入り口。根津美術館にあった明月門が移築されている

 今回の作品のインタープリターは2人。筆者が参加したオープニングでは3人だった。その3人のうちわけは、黒人男性1人、白人女性1人、アジア人女性1人。ごくごく普通の現代人の普段着、といった格好をしている。特殊なメイクもない。それぞれが、断崖の上の舞台となる場所にやってきて、それは舞台といっても、崖っぷちの砂利の上なのだけれど、1人で、2人で、あるいは3人で、ボイスパーカッションと意味不明な言語による歌を歌う。音楽には、ビートがあって、なんらかの歴史性、深い文化的背景をもった音楽というよりも、直接的には80年代90年代のゲームミュージックのように聞こえる。インタープリターたちはあまり立っていることはなく、地面に座るか、膝立ちになり、歌を歌う。時間が経つと、歌い手と聞き手に徐々にわかれてゆく。聞き手は、トランス状態のようになり、目をつぶって上半身を反らせたり、胸の前で腕と手を奇妙に動かしたりする。歌い手は目をひらき、聞き手に語りかけるように歌う。やがて、聞き手が目を開いて歌いはじめたり、歌い手と聞き手が入れ替わったり、誰かが立ち去ったり、誰かが加わったりして、この奇妙な音と動きによる劇は、風が吹きすさぶ静かな江之浦測候所にて、観察者がいるいないに関わらず、つづけられる。はじまりもおわりもない。途中、これを見ているひとたちのために、この場のスタッフによってお茶が出される。これはインタープリターたちとは特に関係なく、見ている人をもてなすような行為である。ライブワークはこれによって中断されることも、これを気にすることもなくつづけられるけれど、このお茶を出すのも、大きくはライブワークの一部である。

 以上が、江之浦測候所におけるティノ・セーガルの作品だ。

 この奇妙な作品について、作者、ティノ・セーガルの言うところを紹介しよう。

 まず、ティノ・セーガルがこういった作品を生み出すようになった理由だけれど、彼は西洋文明を物質的な文明と考え、これが自然と乖離した、人工的なもの、人間による自然の抑圧であると感じていて、こればかりでは、なにかちがうのではないか、とおもっている。そして自然と人間との協働に、価値を見出し、その表現に自身の活動の根拠を求めている。

 ティノ・セーガルはゆえに、日本が好きだという。日本文化は自然と文化が別れていない、人工と自然とのあいだの乖離が少ない、と理解しているからだ。

舞台。岬に突き出た、ガラスの舞台は江之浦測候所の見どころのひとつ。「ライブワーク」はここから少し離れた場所で展開する

 今回の作品では、細かく、インタープリターの動きや出す音を指定することはなく、大雑把なルール、アルゴリズムを決めて、あとはインタープリターの即興に任せている、という。そのアルゴリズムのうちで、重要なのは、地面のそばに体が位置すること、つまりなるべく立たないこと、そして、膝をつくこと、だ。

 ティノ・セーガルは膝をつくことは日本の文化の独自性だと考える。特に、茶、茶室に入るときの膝をつく動作や、床に座る文化に惹かれている。今回のライブワーク中にお茶がだされるのも、その関連性から。

 ティノ・セーガルは、西洋の文明は、膝をつかなくなった、という。かつて西洋でも、たとえば、教会で祈りをささげるときには膝をついた。膝をつく行為は謙譲のあらわれ。霊的なものとの接触において畏敬の念を表する態度だとティノ・セーガルは考える。人が自然を支配している、と考えるようになって、人は膝をつかなくなったと解釈する。

 今回、ライブワークが行われる場所も、すぐに決まったという。海を見晴らすことができ、海の匂いがある。自然と人工物とが調和してあり、茶を出せる場でもある。また、江之浦測候所には基本的に人がいない。これを、未来において、遺跡となる場所、あるいは人がいなくなった未来の場と想定し、そこに幽霊のようにたちあらわれる人間の思い出、という解釈がこのほどの作品にはあるようだ。

 もちろん、ティノ・セーガルは芸術家で、謙虚なため、作品の需要のされかたを押し付けたりはしないけれど、この解釈の仕方は筆者には腑に落ちた。

 かつて、岬は、この世とあの世の境界で、海と丘との堺の向こうに、人間は、人間の知る世界にはいない、未知の、あるいは超越的な存在を感じていたという。日本であれば、神聖な場所というのは、岬のようなところに多くある。江之浦測候所のある場所はまさにそんな岬で、そこに未知を畏れる人間の行為が、幻のようにあらわれたとしても、なんの不思議もない、とおもえるからだ。

 であればそれは、過去の可能性もあるけれど、今回の作品はインタープリターの衣装やその音楽から、過去を感じることはなかった。むしろこれは、SFに近いものだと筆者はおもう。たとえば、ブライアン・W・オールディスの『地球の長い午後』のような。

 

ティノ・セーガル
1976年、ロンドン生まれ。現在はベルリンを拠点に活動。「もの」としての作品・展示は一切行わず、彼が「構築された状況」と呼ぶ、作家の指示に基づいたパフォーマーの動きで観客をある体験に誘う作品で知られる。2013年にヴェネツィアビエンナーレ金獅子賞を受賞。2016年パレ・ド・トーキョー(パリ)、2015年アムステルダム市立美術館、キアスマ美術館(ヘルシンキ)、2012年テート・モダン(ロンドン)、2010年グッゲンハイム美術館(ニューヨーク)にて個展。2014年ヴェネツィアビエンナーレ/建築(ヴェネツィア)、2013年ヴェネツィアビエンナーレ(ヴェネツィア)、2012年第9回上海ビエンナーレ(シャンハイ)、ドクメンタ 13(カッセル)、2010年光州ビエンナーレ(光州)、2007年リヨンビエンナーレ(リヨン)など多数の国際展に参加。