⑨【藤原威子 夫の後を追うように】(道長の四女/倫子の三女)

 長保元年(999)~長元9年(1036) 享年38

 藤原威子は、同母姉の彰子が一条天皇の許に入内した年に生まれた。

 威子は、この彰子が産んだ皇子と結婚することになる。

 長和5年(1016)正月、三条天皇の譲位により、彰子の第一子・敦成親王が9歳で践祚し、後一条天皇が誕生した。

 外祖父である道長が、幼帝の摂政となった。

 寛仁2年(1018)正月、後一条天皇が元服すると、同年3月、威子は後一条天皇のもとに入内し、女御を経て、同年10月に中宮となった。後一条天皇は11歳、威子は20歳、叔母と甥の結婚である。

 これにより、皇太后の姸子(威子の同母姉)、太皇太后の彰子とともに、三姉妹が后に並ぶ、前代未聞の事態となった。

 立后式で道長が詠んだ「望月の歌」は、あまりに有名である。

 威子と後一条天皇の間には、章子内親王と馨子内親王が生まれたが、皇子が無事に誕生するよりも先に、長元9年(1036)4月、後一条天皇が29歳で崩御してしまう。

 威子は悲しみのあまり食事が喉を通らなくなり、裳瘡に羅患し、同年9月、後一条の後を追うようにこの世を去った。

 残された章子と馨子の二人の皇女は、彰子に引き取られた。

 

⑩【藤原尊子 姉妹で唯一「ただ人」と結婚】(道長の五女/明子の二女)

 長保5年(1003)頃?~応徳2年(1085)11月? 享年80余?

 藤原尊子は万寿元年(1024)、22歳ぐらいの時、結婚した。

 相手は具平親王(村上天皇の皇子)の子で、尊子の異母兄・藤原頼通の養子となった源師房である。

 王家構成者でない「ただ人」と結婚したのは、姉妹の中で尊子だけである(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち―〈望月の世〉を読み直す』所収 栗山圭子「第十章 次妻高松殿腹の姫君 ●寛子と尊子」)。

 たが、『栄花物語』には、子に恵まれ、80余の長寿を保ったなど、尊子の幸せが描かれている(巻第三十九「布引の滝」/巻第四十「紫野」)。