⑦【藤原教通 同母兄・頼通との確執】(道長の五男/倫子の二男)

 長徳2年(996)~承保2年(1075)9月25日 享年80

 姫子松柾が演じる藤原教通は、51年も摂関の地位についていた同母兄の頼通より、昇進を阻まれていたとされる(倉本一宏『藤原氏――権力中枢の一族』)。

 教通が頼通から関白を譲られたのは、治暦4年(1068)、73歳の時である。

 頼通と教通は天皇外戚の座をめぐり、熾烈な争いを繰り広げている。

 後朱雀天皇の後宮に、頼通は養女・嫄子を、教通は娘・生子(母は、町田啓太が演じる藤原公任の娘)を入れた。

 また、後冷泉天皇の後宮に、頼通は長女・寛子を、教通は三女の歓子を入れたが、いずれも皇子を授かることはなかった。

 頼通も教通も天皇外戚の座を維持することは叶わず、摂関の力は衰退していく。

 

⑧【藤原寛子 皇太子を辞退した小一条院(敦明親王)の妃に】(道長三女/明子一女)

 長保元年(999)~万寿2年(1025) 享年27

 道長と対立していた三条天皇は、寵愛する皇后娍子が産んだ第一皇子・敦明親王の立太子を条件に、道長の外孫である敦成親王への譲位を受け入れた。

 長和5年(1016)正月、敦成親王は践祚し、後一条天皇となった。

 皇太子となった敦明親王は、寛仁元年(1017)5月に三条が42歳で崩御し後ろ盾を失うと、同年8月、自ら皇太子を辞退。

 新しい皇太子には、後一条天皇の同母弟・敦良親王が立った。

 敦明親王には太上天皇(上皇)に準じる待遇を意味する院号「小一条院」が下され、同年11月、道長の三女・寛子との婚儀が行なわれた。小一条院は24歳、寛子は19歳だった。

 寛子は翌寛仁2年(1018)に儇子内親王、治安3年(1023)に敦元親王を産むが、幼い二人を残して、この世を去っている。