目は開いているが、なにも見ていない

 野犬のチトーがやって来た2020年というのは、コロナ禍。30歳近く年上だった英国人夫を数年前にカリフォルニアで看取り、米国在住の3人の娘たちも独立。早稲田大学文学学術院・文化構想学部教授を引き受けたことから(2018年4月~2021年3月)熊本に本拠地を移していた。

 チトーという名は、『シートン動物記』の「かしこいコヨーテの話」からいただいた。人間に捕獲され、さんざんな目に遭うが、群れに戻り、人間の仕掛ける悪事に詳しい群れのリーダーになるコヨーテの名前である。

 チトーは頑固だった。ベッドの下の暗がりから出てこようとせず、餌を置いても食べない。放置して戻ると、食器はカラになっている。触わられる範囲には絶対入ってこないし、触ろうとすると、もの凄い勢いで逃げる、ただ先住犬のクレイマーにはなついた。

 困り果てたのは、リードを付けられないので散歩に連れ出せないことだった。犬のくせして散歩に出ない引きこもり犬。保健所で付けてもらったチトーの首輪に、いかにしてリードを取り付けるかが心痛の種になっていく。

 不用意に体ごと抱きかかえると、集合住宅中に響き渡る勢いでぎゃん泣きし、体を固まらせて動かなくなる。目は開いているが、なにも見ていない。

 その目は伊藤さんの記憶をつついた。「昔テレビで見た、ライオンに捕まったガゼルが、こんな目をしていた。いやもっと近いところで見た記憶がある」「うちの娘だ。10歳でアメリカに連れていった後、長い間適応できなかった」。

 学校の先生から電話があり、2時間かけてキャンプ場に着くと、そこで娘が固まっていたこともある。「こんなふうに固まって、その目が、こんなふうに、何も見ていなかったのを、母は見ていた」。あの目は二度と見たくない。

 チトーは犬用マットも猫ぶとんも毛布もタオルケットもスリッパもラグ、すべて粉々に噛み砕いた。そのうち経血を滴らせるようになり、クレイマーと後尾ごっこをする。リード装着問題に加え、去勢問題も浮上する。

 

「私は、チトーが死ぬまで、死ねません」

 と書いていると、まるでチトーの世話に明け暮れているかのようだが、伊藤教授は忙しい。授業で上京しなければならないし、コンビニで買ったかき揚げ丼を食べてお腹もくだせば、コロナワクチン接種の副反応で発熱もする。2022年はドイツの研究機関の招聘で三カ月間滞在する予定があった。

 本書で印象的なのは、飼い主がいないとき、動物たちに多くの手がさしのべられることである。愛犬教室の先生、同じ集合住宅の住人、泊まり込みでシッターを引き受けてくれる早稲田や熊本の大学生達。動物の世話を媒介に、ある種の助け合いコミュニティが形成されていくさまは、読んでいてすがすがしい。

「比呂美かーさん」が家に戻って来たときの、クレイマーのすがりつくようなむせび泣き、猫たちのはしゃぎよう、チトーのお帰り立ち舞など、擬人化を極力押さえた動きの描写はさすが詩人のもの。愛おしくてたまらなくなる。

 2023年は4回のアメリカ行。その中の一回でカリフォルニアに回り、コロナ禍で熊本に連れてこられなかった16歳のパピヨン犬ニコに会いに行く。ニコとの再会は感動的だ。老犬は目もあまり見えないはずなのに、伊藤さんが2メートルくらいに近づくと表情をぱっと輝かせ、手を差し出すとぴったりしがみついてくる。ニコはこの年の秋、長女一家に連れられて熊本へ。伊藤さんの6年越しの悲願達成だった。

 ニコが加わって「比呂美おかーさん+5匹の犬猫」になったいま、伊藤さんの頭を悩ませるのは自分になにかあったときだ。そもそも、なぜ子供達も独立した未亡人に、こんな多頭飼いの生活が必要なのか。

 伊藤さんはこう書く。独りになって、ああ、ラクだと思ったのもつかの間、「舌の根も乾かぬうちに世話の必要なものたちをわざわざ集めて、浮世の義理みたいなものを人工的につくり上げて、情で自分をがんじがらめにして、必死で世話しているのはなぜか。自分が、この浮世にどうにかこうにかひっかかって、生き抜くためなんではないか」

 人間は怖いもの、怖いときはじっと固まりなさい。森のおかあさんにそう教わったのだろうか。関係の質はだんだん濃くなるものの、根本の所では母の教えに忠実なチトーの振る舞いを見ていると、出来の悪い子ほど可愛いという人間社会の俗諺を思いだしてしまう。

 最後に残念なお知らせを。小成功や中成功、及び挫折を経て、チトーのリード装着にはまだ成功していない。伊藤宣言が力強い。「私は、チトーが死ぬまで、死ねません」