幼き日の犬との揺るぎない関係と、恋人との揺らぐ関係とが響き合う

『雷と走る』
著者:千早 茜
出版社:河出書房新社
発売日:2024年8月22日
価格:1,540円(税込)

【概要】

幼い頃海外で暮らしていたまどかは、番犬用の仔犬としてローデシアン・リッジバックの「虎」と出会った。唯一無二の相棒だったが、一家は帰国にあたり、犬を連れて行かない決断をして——。

 

 もう一冊の『雷と走る』の主人公「まどか」は、小学校に入学したばかりの年に、父の海外赴任で両親や弟とともにアフリカに渡る。ウィキペディアには、千早さんの父上は獣医師で、小学校1年生から4年生までザンビアのアメリカンスクールに通っていたとあるから、小説の中の素材は、ほぼ実録と思っていいのかもしれない。

 まどかの一家に用意されたのは、高級住宅街にある広大な屋敷だった、刑務所じみた陰気な塀に囲まれていたが、塀の内側は緑の蔦に覆われ、赤紫色のブーゲンビリアが咲きほこり、プールや果樹園があった、

 父に連れられ、街はずれの集落に、ガードドッグ(番犬)を求めに行く。痩せた母犬の回りで10匹近くの仔犬がころころ転げ回っていた。

 父は賢そうな仔犬を、弟の和は好奇心旺盛で活発そうな2匹を選んだ。敷地の広大さを考えると「もう一匹いてもいいね」と案内人の山川さんが言ったとき、まどかは母犬の向こうでうずくまっていた仔犬に目を留める。

 黒と茶のまだら模様のせいで石に見間違えていたその仔犬は、一番小さく、顔はしわしわ、目はしょぼしょぼ。「あの子弱ってるの?」と山川さんに聞くと、「これだけきょうだいが多いと餌も取り合いですからね」と言う。

 まどかはその子を選んだ。山川さんに「良いことをしましたね」と褒められる。もらい手がつかない犬はお金にならないから捨てられると言う。「番犬の素質がない犬は要りません」、ここは「役に立たない犬を飼う余裕なんてない人ばっかりなんです」

 塀の外に広がるひび割れた大地、使用人が4人いる塀の内側の楽園。そんな対比を捉えるにはまだ、まどかは幼なすぎた。捨てられるなんて可哀想と呟く。

 

雷のような逆毛を背負った「戦士の魂を持つ生き物」

 仔犬たちはローデシアン・リッジバックという犬種だった。ローデシア原産の猟犬と、ヨーロッパからの入植者が連れてきた大型警備犬のかけあわせで、背骨にそって逆毛があるのがこの犬種の特徴だった。

 現地の人々は「背中に蛇を負う犬」と呼ぶ。ライオン狩りに使われるほど勇敢で粘り強く、体力もある。「戦士の魂を持つ生き物」だと。

 まどかは餌を食べるときもきょうだい犬に押しのけられていた仔犬に、ライオンに匹敵するほど強くなってほしいとの願いをこめて「虎」と名付ける。

 虎は1年も経つと四肢がすらりと伸び、どの犬より肩の位置が高くなり、まだら模様はくっきりとして、名前の通り虎のようになる。

 まどかが庭にいる間、虎は常に視界に入るところにいた。プールで遊んでいるときは木陰で様子を見ていて、家の中に入ると、テラスでずっと出てくるのを待っている。客人があると、まどかをガードするように油断なく監視した。まどかに贈り物をするように、芝生に寝転んで本を読んでいるまどかの耳元に、腹から内臓をこぼれさせた蜥蜴をぽとりと落とし、尻尾を振ったりもする。

 道具を持った庭師が通りかかると警戒心から背骨の毛を逆立たせ、まどかは毛の立つその様を、先だってマンゴーの木に落ちて一瞬のうちに焼いた雷のようだと思う。

 食餌競争でも最劣位にいた虎が、うちなる野生に目覚めていく変貌ぶりが鮮烈だ。野生とは、なんとおかしがたく、まがまがしく、手の付けられない生命の奔流であることか。

 父が真っ先に選んだメスの「静」が出産し、中の数匹が虎毛だったことから虎の父親説が浮上するが、何と言っても圧倒的なのは、近所のアメリカンスクールの日本人同級生の家で虎が巻き起こした事件である。

 決して自分達で外出してはいけないと禁止されていたにもかかわらす、まどかと弟の和は抜け出して遊びに行く。門番の不手際もあって、虎ともう一匹が付いてきた。友人宅に入るやいなや、虎はその家の番犬ドーベルマンの喉に食らいつき、阿鼻叫喚の騒ぎを巻き起こす。そして2メートルはあるかと思われる塀を、やすやすとジャンプして逃げ去るのだ。

 夜中に侵入者があったときもそうだった。まどかは侵入者から虎を抱くが、虎は「雷が空を切り裂くように、背中の毛をばりばりと」立たせ、まどかを振り切って暗がりに飛び出していく。追いかけたまどかが見たのは、服も皮膚もずたずたに引き裂かれ、血まみれのまま震えて地面にうずくまる男の姿だった。

 野生のたくましさ、おぞましさ、美しさ……。

 帰国が決まったとき、犬たちは連れて帰れないという父に、まどかは抗議する。父は言う。じゃあまどかが決めていい。そのかわり「なにかあったときは」「おまえが責任を負いなさい」。虎の野生を日本で飼い馴らすことは無理だと分かった。まどかは10歳にして断念を知る。