原爆裁判を担当

「原爆裁判」とは、昭和30年代、原爆投下の違法性が初めて法廷で争われた国家賠償訴訟の通称名である 。

 嘉子はこの原爆裁判を、東京地方裁判所において、第一回の口頭弁論から結審まで、一貫して担当している(判決時は、すでに東京家庭裁判所に異動)。

 昭和38年(1963)12月に下された判決では、被爆者への賠償は認めなかったものの、原爆投下を、「国際法違反」と明言している。

 裁判官の守秘義務からか、嘉子はこの裁判に関して、回想録などでも何も触れておらず、嘉子の息子・芳武も、内容については何も聞いていないという(以上、山我浩『原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子』)。

 

初の女性裁判所長に

『追憶のひと三淵嘉子』の年譜によれば、嘉子は再婚した昭和31年の12月から、東京地方裁判所と東京家庭裁判所の判事を兼務した。

 48歳の時には、東京家庭裁判所に異動。

 その後、昭和47年(1973)6月、58歳の時に、新潟家庭裁判所長に就任。初の女性裁判所長となった。

 昭和48年(1973)11月に浦和家庭裁判所長、昭和53年(1978)1月に横浜家庭裁判所長となり、昭和54年(1979)11月、65歳で定年退官した。

 退官後は、第二東京弁護士会に弁護士登録し、労働省男女平等問題専門家会議座長、東京家裁調停委員兼参与員などを歴任。

 夫の乾太郎と国内外を旅するなど余生を謳歌し、闘病を経て、昭和59年(1984)5月28日に、69歳でこの世を去った。

 同年6月23日に、東京の青山葬儀所で行われた葬儀と告別式には、2000名以上が参列した。

 会場には、嘉子が好きだったチャイコフスキーの音楽が流されたという。

 翌昭和60年(1985)には、乾太郎も亡くなった。

 嘉子の遺骨は彼女の生前の希望により、乾太郎が眠る霊寿院(神奈川県小田原市)の「三淵氏の墓」と刻まれた墓と、丸亀にある死別した最初の夫・和田芳夫の墓に分骨された。

 茨の道を切り開き続けた女性法曹の先駆者・三淵嘉子は、長い闘いを終え、愛する二人の夫と共に、安らかに眠っているのだ。