初の女性判事に

 裁判官はまず「判事補」に任命され、その後、10年の実務を経験して、「判事」に昇進するのが、普通だという。

 判事補であった嘉子も、昭和27年(1952)12月、判事となった。

 嘉子は判事補となってから3年あまりであったが、弁護士であった期間も足して、10年と認められたのだ。日本初の女性判事の誕生である。

 当時、東京で勤務していた裁判官は、判事になったタイミングで、地方へ転勤するのが通例だった(以上、清永聡編著『三淵嘉子と家庭裁判所』)。

 嘉子も、小学校四年生の息子・芳武を連れて、名古屋地方裁判所へ転勤している。

 初の女性判事の赴任は名古屋でも注目の的であり、駅前の電光掲示板のニュースに流されたという(『追憶のひと三淵嘉子』所収 大脇雅子『名古屋時代の和田(三淵)判事』)。

 名古屋では六畳二間の官舎で、芳武と住み込みのお手伝いさんと、三人で暮らした。

 

岡田将生が演じる星航一のモデル? 三淵乾太郎と再婚 

 昭和31年(1956)5月、嘉子は東京に転勤となり、東京地方裁判所判事で勤務することとなった。

 同年8月、嘉子は岡田将生が演じる星航一のモデルといわれる三淵乾太郎と再婚し、三淵姓を称するようになる。

 嘉子41歳、乾太郎50歳の時のことである。

 乾太郎も裁判官であり、沢村一樹が演じるライアンこと久藤頼安のモデルといわれる内藤頼博と同期で、嘉子と結婚した時には、最高裁判所の調査官に就いていた。

 ドラマの星航一と同じように、乾太郎も戦時中、総力戦研究所のメンバーに選ばれている。

 乾太郎は昭和30年(1955)に妻と死別しており、亡き妻との間には長女・那珂、次女・奈都、三女・麻都、長男・力の三女一男が生まれていた。

 乾太郎の父・三淵忠彦は、ドラマの星航一の父親・平田満が演じた星朋彦と同じく初代最高裁判所長官を務め、昭和25年(1950)に亡くなっている。

 いつ誰が嘉子と乾太郎を引き合わせたのか、実はよくわかっていないというが(神野潔 『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』)、内藤頼博は、「亡き忠彦の妻・静が、乾太郎の後添いとして、嘉子に白羽の矢を立てた」と述べている(『追憶のひと三淵嘉子』所収 内藤頼博「三淵さんの死を悼む」)。

 嘉子と乾太郎は、どちらも転勤を伴う裁判官であったため、別居の期間も少なくなかったようだが、仲は睦まじかったという。