日本で二番目の女性裁判官に
嘉子は懸命に働き、裁判官に必要な経験や知識を積み上げていった。
その能力は認められ、嘉子は昭和24年(1949)8月、34歳の時、東京地方裁判所民事部の判事補に任命され、日本で二番目の女性裁判官が誕生した(女性初の裁判官は石渡満子、女性初の検察官は門上千恵子。同年4月に採用)。
こうして、嘉子の裁判官としての人生がはじまった。石田和外に「裁判官採用願」を提出してから、約二年半の月日が流れていた。
嘉子は東京地方裁判所民事六部の所属となった。
民事六部の裁判長・近藤完爾は、着任した嘉子に対して、「あなたが女であるからといって特別扱いはしませんよ」と、はじめに告げたという。
本当の意味での男女平等を実現するためには、「職場における女性に対しては女であることに甘えるなといいたいし、男性に対しては職場において女性を甘えさしてくれるなといいたい」と考える嘉子にとって、近藤の言葉は嬉しいものだったのだろう。
嘉子は近藤のことを、「裁判官生活で最も尊敬した裁判官」と称し、近藤のもとで、明るくのびのびと仕事に励んでいった(三淵嘉子「私の歩んだ裁判官の道――女性法相の先達として――」)。
アメリカへ
昭和25年(1950)5月、嘉子はアメリカの家庭裁判所制度視察団のメンバーに選ばれ、アメリカへ渡った。
嘉子の留守は半年に及んだが、このとき小学校二年生だった嘉子の息子・和田芳武は、寂しい思いをしたと語っている(佐賀千惠美『人生を羽ばたいた〝トラママ〟 三淵嘉子の生涯』)。
なお、ドラマではこの頃、主人公・佐田寅子(旧姓・猪爪寅子)とその娘・佐田優未は、寅子の親友で義理の姉(亡兄の妻)・森田望智が演じる猪爪花江とその子どもたちや、寅子の実弟・三山凌輝が演じる猪爪直明と暮らしているが、嘉子と息子の芳武は、嘉子の二番目の弟・武藤輝彦とその妻・温子と同居していたという。