甥の立太子ならず

 翌寛弘8年(1011)6月22日、一条天皇が崩御した。

 皇太子・居貞親王(父は冷泉天皇、母は藤原兼家の娘・藤原超子)が36歳で即位し、木村達成が演じる三条天皇が誕生した。

 隆家は甥の敦康親王が、次の皇太子となることを望んでいた。

『大鏡』第四巻「内大臣道隆」にも、隆家は敦康親王が皇太子となるのを、心待ちにしていたと記されている。

 世間の人も、「もし、敦康親王が御即位あそばし、この殿(隆家)が後見でもなさったら、天下の政治も隙間なく治まるだろう」と期待していたという。

 ところが、皇太子になったのは、彰子が産んだ第二皇子の敦成親王(道長の孫、後の後一条天皇)だった。

 隆家の失望は大きかった。

 だが、隆家は人々の「きっと、がっかりしているに違いない」という想像を覆してやろうと思い、三条天皇の大嘗会で、大変に煌びやかに装った。

 隆家には、そういう負けず嫌いなところがあったと、『大鏡』に綴られている。

 

目を病み、大宰府へ

 道長の日記『御堂関白記』長和2年(1014)正月10日条には、隆家が「去年の突目により、この何日か籠居している」と記されている。

 突目とは、「匐行(ふくこう)性角膜潰瘍」のことである。

 角膜の突き傷から細菌に感染して起こる化膿性潰瘍で、主症状は角膜の混濁、異物感、痛み、眩しさ、流涙などである。進行すると黒目に穴が開き、失明に至る。

 隆家は、その突目を患ったのだ。

『小右記』には、隆家が実資のもとを訪れ、眼病について相談したことが記されている。隆家と実資は邸第が隣同士で、頻繁に行き来する、親しい間柄だったという(倉本一宏『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』)。

『大鏡』第四巻「内大臣道隆」によれば、「大宰府には、唐人(正しくは「宋人」)の眼病の名医が来日しているそうなので、診て貰おう」と大宰府赴任を希望したという。

 長和3年(1014)11月、隆家は大宰権帥に任じられ、翌長和4年(1015)4月に赴任した。隆家、37歳の時のことである。

 隆家は大宰府で善政を行ない、九州の人々を心服させたという。

 大宰権帥の任期(5年)の最後の年、隆家は大変な事件に遭遇し、武勇を轟かすことになる。

 その事件とは、「刀伊の入寇(刀伊の来襲)」である。