兄弟で事実上の流刑に

 翌長徳2年(996)正月には、本郷奏多が演じる先帝・花山院とトラブルになった伊周が、隆家に命じて、花山院に射かけたことにはじまる「長徳の変」が勃発した(樋口健太郎 栗山圭子編著『平安時代 天皇列伝』 高松百香「一条天皇——外戚の後宮政策に翻弄された優等生」)。

 これらの罪により、同年4月24日、伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守への左遷の決定が下された。事実上の流刑である。

 二人は任地へ向かったが、病のため、伊周は播磨国、隆家は但馬国での滞留を認められた。

 ところが、同年10月7日、伊周が勝手に上京し、定子の御在所に潜伏した。だが、発覚し、今度こそ大宰府へ配流された。

 

兄と姉の死

 長徳3年(997)3月25日、吉田羊が演じる藤原詮子(東三条院)の御病の平復のために大赦が行なわれた。同年4月5日、伊周と隆家の召還も赦され、二人はそれぞれ帰京した。隆家、19歳のときのことである。

 帰京が叶った隆家は、翌長徳4年(998)10月、兵部卿に任じられた。

 道隆の死や長徳の変により後ろ盾を失っても、一条天皇の定子への寵愛は続いており、長保元年(999)11月7日、定子は一条天皇の第一皇子となる敦康親王を産んだ。

 同日、11月1日に入内した道長の娘・見上愛が演じる藤原彰子に女御宣旨が下され、長保2年(1000)2月には、定子を「皇后」、彰子を「中宮」とする、史上初の「一帝二后」が決行された。

 同年12月、定子は僅か2歳の敦康親王を残し、第三子となる皇女・媄子を出産した翌日に死去した。

 寛弘7年(1010)正月には、兄の伊周が37歳で没している。隆家は32歳になっていた。