父親の供養を拒んだ?
道兼の父・兼家は、正暦元年(990)5月、道隆に関白の座を譲ると、7月に亡くなった。
『大鏡』によれば、道兼は父・兼家の四十九日の服喪には、土殿(喪中に籠もる場所)にも入らず、読経も念仏も唱えなかった。
それだけではない。仲間を呼び寄せ、『後撰和歌集』や『古今和歌集』を広げて、即興の冗談や洒落を言って遊び、少しも嘆かなかった。
その理由は、父・兼家が関白職を、兄・道隆に譲ったからだという。
「花山院を退位させたのは、この私だ。だから、関白職は私に譲るべきだ」というのが、道兼の主張である。
『大鏡』では、道兼の主張を「世間では通らない非常識な話」と断じている。
七日関白
長徳元年(995年)4月10日、道隆が死去すると、4月27日、一条天皇は道兼を関白の座につけた。
念願の関白職を手に入れた道兼だったが、同年5月8日、道兼も35歳で、この世を去った。道兼も病に冒されていたのだ。
世の人々はこれを、「七日関白」と称したという。