巡礼者が辿る罪深い世界
《干し草車(乾草車とも)》(1512-15年)も不思議な三連祭壇画です。外扉には巡礼者と、彼が辿っていく罪深い世界が展開されています。
ダンスをしている男女の後ろには好色を意味するバグパイプを持った男性が座っていて、さらに遠くには絞首台が見えます。橋を渡ろうとする巡礼者と、流れていく人生を象徴するような罪に満ち満ちた世界から、この祭壇画は始まっていきます。
扉を開くと左パネルにはエデンの園、右が地獄という、最後の審判的な表現がされています。
中央パネルは宗教的なものとは全く違って「役に立たないもの」という意味がある干し草を我が物にしようと人々が争っている様子です。「干し草を奪う」という格言もあり、はかないもの、無価値なものである干し草を奪うのは愚行という意味です。干し草が空しいものだということの典拠となっているのは旧約聖書の「イザヤ書」にある「肉なるものは皆、草に等しい。永らえてもすべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ」という一説です。また、オランダの諺には「この世は干し草の山だ。誰でもそこから得られるだけ引っ張る」とあり、文芸的な主題として使われていましたが、それを絵画の中で初めて表したのはボスが初めてです。
左パネルのエデンの園の天上には神がいて、そこから昆虫のようなものが降ってきています。これは堕天使が降りてきて悪魔になる模様を、昆虫のような形に描かれていると解釈されています。そこにアダムとエヴァが登場して、悪魔に誘惑されて禁じられていた知恵の木の実を食べるという罪を犯し、楽園を追放される場面が異時同図法で描かれます。
中央パネルで繰り広げられるのは現世の浅ましい様相で、男も女も、貧しき者も豊かな者も、奪い合い殺し合っています。左側には教皇の印である三重冠を被っている教皇、五角形のような形の帽子の司祭、馬に乗っている王侯貴族もいて、愚かな人類の全員がいます。天上には神の姿がありますが、その存在に気づいているのは積み上げられた干し草の上で祈る天使だけ。誰も神に気づくことなく、価値のない干し草に群がって、我先にそれを奪おうとする愚かな人間たちの群れが描かれています。また魚に足があるグリロス(体のパーツを合成した怪物)が人間たちを引き連れながら、右パネルの地獄に連れていきます。おぞましい人間たちの所業が明るい色彩であっけらかんと描かれているのがすごく面白いと思います。
地獄では魚が胴体で足が生えている怪物が人間を食べるなど、人間を責め苦に合わせています。建造の途中の様子が克明に描かれていますが、これは地獄に落ちたものを収容する建物です。
遠景にはボスが体験した大火が蘇ったかのように、激しい火炎にみまわれています。ボスが13歳か14歳の時に街で大火があり、家や建物が焼け落ち、人口約2万人のうち4000人ほどが死にました。その記憶がボスの地獄の恐ろしい火の描写につながっているといわれています。
このように《愚者の船》《干し草車》はじめ、ボスの作品には悪意に満ちた人間ばかり登場し、善良な人がまったく出てきません。人間の幸せな場面を描くことがなかったボスは、ものすごくペシミスティックな人物だったのかもしれません。
参考文献:
『謎解き ヒエロニムス・ボス』小池寿子/著(新潮社)
『図説 ヒエロニムス・ボス 世紀末の奇想の画家』岡部紘三/著(河出書房新社)
『名画の秘密 ボス《快楽の園》』ステファノ・ズッフィ/著 千足伸行/監修 佐藤直樹 /訳(西村書店)
『異世界への憧憬 ヒエロニムス・ボスの三連画を読み解く』 (北方近世美術叢書別巻) 木川弘美/著(ありな書房)
『ヒエロニムス・ボスの世界 大まじめな風景のおかしな楽園へようこそ』ティル=ホルガー・ボルヒェルト/著 熊澤弘/訳(パイインターナショナル)
『ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』を読む』神原正明/著(河出書房新社)