井伊の赤備え
天正10年(1582)、直政は22歳で、元服したと伝えられる(新井白石『新編藩翰譜』)。
この年は3月に武田氏が滅亡。6月には「本能寺の変」が勃発し、小姓として家康に随行していた直政も、家康とともに、いわゆる「伊賀越え」で帰国の途についている。
このとき直政も貢献したようで、帰国後、家康から褒美として、孔雀尾の陣羽織を授かったと伝えられる。
このころの直政は家康に近侍するだけでなく、政務にも携わるようになっていた。
同年、旧武田家臣の徳川家への帰属交渉が進められた際に、直政も担当者の一人として手腕を振っている。
また、小田原北条氏との和睦に際し、22歳にして使者に抜擢された。
このときの北条側は、北条五代当主である北条氏直の叔父・北条氏規を、使者に立てている。
このころ直政は旗本先手大将に任じられ、多くの旧武田家臣が、直政の旗本部隊に編入された。
『徳川実紀』によれば、家康は「山県昌景(長篠合戦で戦死した武田家の重臣。ドラマでは橋本さとしが演じた)の赤備えは大変に見事だ」と、井伊隊の軍装を赤で統一させたという。
これにより武田軍の赤備えは直政に継承され、「井伊の赤備え」と称される軍団が誕生した。
家康の養女と結婚
直政は天正11年(1583)1月11日、東条松平家の家老で、永禄7年(1564)に家康から「松平姓」を与えられた松平康親(松井忠次)の娘と結婚している。
康親の娘は家康の養女となって直政に嫁いでいるため、直政は家康の婿となった。
これは、異例といっていい厚遇だった。浜松時代の家康が、養女を嫁がせて親族関係を結んだのは、直政だけだったという(野田浩子『井伊家 彦根藩』 吉川弘文館)。