2歳で父を失う
井伊氏は今川氏の命により、幾度も出陣した。
永禄3年(1560)に起きた「桶狭間の戦い」も、その一つである。
織田信長の軍勢により、野村萬斎が演じた今川義元が討ち取られたこの戦いで、井伊氏の当主・井伊直盛が、35歳で討死してしまう。
永禄5年(1562)には直政の父・井伊直親が[忍高3] 、溝端淳平演じる今川氏真から松平家康(のちの徳川家康)との内通を疑われ、誅殺された。直政は2歳(数え)で、父親を失ったのだ。
直政も害されるはずであったが、井伊氏の親戚である新野親規に養育された。
その親規も討死してしまい、永禄11年(1568)、遠江国の争乱が激化すると、直政は鳳来寺(愛知県新城市)へ逃れた。
『井伊家伝記』によれば、その後、直政の母親は遠江頭陀寺(静岡県浜松市南区)の松下源太郎(松下清景)に再嫁した。
直政も養子として、松下の家で養育されたという。
なお、秀吉は信長に仕える前、この松下氏に仕えていたという伝承が残っている。
家康に出仕
直政が家康に出仕したのは、天正3年(1575)、直政が15歳のときだという。
出仕の経緯としては、家康が鷹狩りに出た際に、その道中で偶然に出会った直政を見いだし、召し抱えたという逸話が有名だ。
しかし、実際は偶然ではなく、井伊氏の人々をはじめとする、周到なお膳立てがあってのこととみられている。
いずれにせよ、直政は家康に召され、小姓として近侍することとなった。
直政は松下清景の養子であるから、本来は「松下」を名乗るはずだが、家康は「井伊」を名乗らせた。また、虎松から万千代へと名を改めたという(公益財団法人 静岡県文化財団『湖の雄 井伊氏 ~浜名湖から近江へ、井伊一族の実像~』)。
江戸幕府が編纂した大名・旗本の系譜集『寛政重修諸家譜』によれば、直政の初陣は翌天正4年(1575)の、「遠江芝原の戦い」である。
直政はこのとき、眞栄田郷敦が演じた武田勝頼の軍勢と戦い、軍功を挙げたという(天正6年の「田中城攻め」を初陣とする説あり)。