信康の御霊を弔う
その後、半蔵は遠江国(現在の静岡県西部)に知行8000石を与えられた。
天正18年(1590)、家康が江戸に入府すると、半蔵も家康に随伴して江戸に入った。
半蔵は与力30騎、伊賀同心200人を支配する旗本となり、組屋敷を江戸城麹町口門外に与えられた。
門は半蔵にちなんで、「半蔵門」と称されるようになったという(諸説あり)。
半蔵は、先に述べた「信康事件」で自害に追い込まれた家康の子・信康の御霊を弔うために剃髪出家し、麹町清水谷(東京都千代田区紀尾井町の清水谷公園付近)に庵を建てた。
そして、ずっと大切に持っていた信康の遺髪を埋めたという。
介錯の役目を果たせなかったせいか、信康のことがずっと心に残っていたのだろうか。
半蔵の死
文禄2年(1593)、半蔵は家康から、信康や戦死者の追善供養のために寺院を建立するという内命を与えられた。
ところが、半蔵は家康の内命を果たす前に、慶長元年(1596)11月4日、55歳で生涯を終えてしまう。
半蔵の没後、麹町清水谷に寺院が建立され、半蔵の法名「専称院殿安譽西念大禅定門」から山号・院号・寺号をとり、「専称山安養院西念寺」となった。
そして寛永11年(1634)に、現在の新宿区若葉に移転したという(以上、「西念寺由緒」より)。
西念寺の境内には、半蔵の墓と、信康の遺髪を納めた供養塔がたち、家康から賜ったとされる半蔵の槍が所蔵されている。
家康から賜った槍と信康の遺髪の近くで眠れて、半蔵も喜んでいるのではないだろうか。