伊賀越えでの活躍

 半蔵の活躍で最も知られているのは、「伊賀越え」だろう。

 天正10年(1582)6月2日、京都にいた岡田准一演じる織田信長が、酒向芳演じる明智光秀の謀反により討たれた。本能寺の変の勃発である。

 一方、家康は信長の勧めで上方見物をしていた。

 家康は滞在していた堺を立ち、信長のいる京都へ向かう途中、本能寺の変の報せを聞いた。

 家康は本拠地・三河国岡崎への帰国を決意。家康の三大危機の一つに数えられる伊賀越えが敢行された。

 このとき半蔵は案内に立ち、彼が集めた忍び200人が家康を守り、家康を窮地から救ったという。

 

伊賀越えは伊賀者の創作?

 この伊賀越えを、日本史学者の藤田達生氏は、江戸中期に幕藩体制が安定し、忍びの仕事を失って困窮した伊賀者の要望を受けての創作だったと推測している。

 その理由として、江戸幕府編纂の大名・旗本の系譜集『寛永諸家系図伝』に、伊賀越えにおける功績が強調されていないため、『寛永諸家系図伝』が成立した寛永年間(1624~1644)には、まだ「神君伊賀越え」の物語は創作されていなかったとし、伊賀越えの初期史料と見られるのが、享保11年(1726)成立の『伊賀者由緒書』などの伊賀衆の由緒書類であること。

 半蔵が登場する伊賀越えの関係史料は、寛政11年(1799)に成立した江戸幕府官撰の大名や幕臣などの系譜集成『譜牒余録』に一カ所。天保14年(1843)に完成した初代・家康から十代・家治までの徳川将軍の実録『徳川実紀』のみだということを挙げている(三重大学国際忍者研究センター『忍者学研究』 藤田達生「中世の伊賀者研究より」)。

 半蔵の伊賀越えでの活躍はあったのだろうか。

 忍びをリアルに描く『どうする家康』では、どのような展開になるのか、楽しみである。