カルチャーの流れを逆流させたスウィンギングロンドン
日本展の会場は大きく分けて、ほぼ時系列に4つのテーマ構成になっている。
1.「ブランドの構築」(1930~66)
2.「成功への扉」(1960~65)
3.「グローバル化」(1965~75)
4.「ファッションの解放」(1965~75)
それぞれの見どころと、知っておくべき社会背景を簡単に解説する。
1.「ブランドの構築」
ここでは1930年に教師の両親のもとに生まれたマリー・クワントが、ゴールドスミスカレッジで美術を学び、公私ともにパートナーとなるアレキサンダー・プランケット・グリーンと出会い、1955年(25歳)でロンドンに「バザー(BAZAAR)」というブティックを立ち上げ、成功させるまでを紹介。
ヌードすれすれまでなんでもありを経てしまった現代人の目から見ると、この頃のクワントの作品は意外と保守的で上品に見えるが、膝が見える「キンキー(奇抜)」なスカート丈や、メンズスタイルからヒントを得た「ジェンダーの境界を揺るがす」デザインは、当時としては衝撃に近いものだった。
ちなみに、女性の膝を醜いものとして嫌ったのがココ・シャネル。同時代にはシャネルも第二次黄金期を迎えているのだが、決して膝を見せるデザインは作らなかったし、シャネル自身はついぞミニスカートをはかなかった。マリー自身も「シャネルは私を憎んでいる。理由もわかる」と語っている。成熟したエレガントな大人が眉をひそめたものこそが、子供のように膝を出すミニスカートだった。
マリーがファッションビジネスを始めた動機は、ただただ、時代にふさわしい若さを謳歌できる自分たちのための服が着たいというシンプルで純粋なもの。チェルシー界隈でダンスや社交を楽しむのにぴったりなストリートスタイルを手ごろな価格で提案したら売れに売れた。当初はビジネスのやり方もわからず、ハロッズで生地を買ってきて自分で縫うことからスタートしている。広報を担ったアレキサンダー、経営を担当したアーチーとの絶妙なチームワークがマリーにとっての幸運だった。
画期的だったのは、ワーキングクラスの女の子も富裕な貴族階級も同じようにクワントの服を手に取ったということ。社会階級が厳として存在していたイギリスでは、革命的なことだった。クワント以前は、「ファッション」は上流階級のもので、その階級の有閑女性を顧客としていた(主に)男性デザイナーが流行を生む主導権を握っていた。社会階層の「上」から「下」へとトリクルダウンするのが「あたりまえ」だったファッションの流れを、マリーは逆流させたのだ。しかも発信地をパリからロンドンへと移してしまった。
ビートルズがデビューするのが1962年。007シリーズ第一弾「ドクター・ノオ」が公開されたのも1962年。ビートルズも007もあっという間に世界を制覇する。1965年には、アメリカ版「ヴォーグ」の編集長だったダイアナ・ヴリーランドが「ロンドンはいま、世界でもっともスウィングしている都市」と宣言し、ミニの女王ことマリー・クワントはスウィンギングロンドンの旗手として世界から注目を浴びることになる。
ちなみに「スウィング」には「ジャズに合わせてダンスする」「パーティーが盛り上がる」「流行に乗る」「夫婦やパートナーを(一時的に)交換する」という意味も含まれる。猥雑でクリエイティブな、乗りに乗った変化の坩堝、それがスウィンギングロンドンのイメージである。