他人から上品に見られることよりも、自由に自分らしくあること

2.「成功への扉」

《ジンジャー・グループのために作られたピナフォア「スノッブ」とストライプのアンサンブルを着るロス・ワトキンスとポーリン・ストーン》1963年 © John French / Victoria and Albert Museum, London
《ジンジャー・グループのために作られたピナフォア「スノッブ」とストライプのアンサンブルを着るロス・ワトキンスとポーリン・ストーン》1963年 © John French / Victoria and Albert Museum, London

 ロンドンの都市の風景を変えたマリー・クワントのファッションは、勢いよく海を越えていく。1962年にはJ.C.ペニーと洋服・下着のデザインのライセンス契約を結び、アメリカ市場に進出する。大量生産時代にいちはやく反応した既製服のライセンスビジネスの始まりである。アメリカのスポーツウェア(上下別々に組み合わせて着るセパレーツ)のシステムも取り入れ、翌年には「ジンジャー・グループ(GINGER GROUP)」を設立し、低価格で若々しいラインを立ち上げ、ファッションの民主化を着々と進めていった。

1963年に立ち上げた新しいブランドライン「ジンジャー・グループ」。上下組み合わせも可能な、着やすくて手頃な価格のアイテムをそろえた。店頭のディスプレイには、モーリン・ロフィーによる漫画のようなイラストが飾られた

 スカート丈を変えるということは、それにふさわしい下着やタイツも必要になるということで、クワントは斬新なカラータイツやレースタイツも生み出していた。ミニスカートに合うヘアスタイルも必要になり、1964年には自らがヴィダル・サスーンの「ファイブ・ポイント・カット」のアイコンとなった。洗って乾かすだけで形が決まるこのヘアスタイルは、軽快でポップなクワントのスタイルに似合っただけではない。当時の性革命とも連動していた。それ以前のスプレー固めのセットヘアでは夜遊び朝帰りなど到底、不可能だったのだ。

 夜遊び朝帰りをさらに助長したのは、落ちないメイクである。元祖ウォータープルーフのマスカラもクワントの考案である。実際、「メイクアップ・トゥ・メイクラブ・イン(愛の行為を行うときのメイク)」というきわどいネーミングの製品まで発売している。

 服、タイツ、下着、ヘア、メイク。それらすべてを含めたトータルルックの見せ方も、商品のスピリットにふさわしく変えた。前例のないスピーディーなショー、動きにポイントを置いたダイナミックな写真、細身で中性的な、変てこなポーズをとるモデル、そして言葉遊びを効かせた洒落っ気満載の商品名や大胆な広告。数々の大胆な変化のなかでも最たるものは、アティチュード、つまり、社会に向き合う態度である。

《マリー・クワントのタイツと靴》 1965年ごろ Image courtesy Mary Quant Archive / Victoria and Albert Museum, London

 リスペクタビリティ(上品に見えること)を重視した、他人の視線をおどおどと伺う道徳観を古きものとして捨て去り、自由に自分らしく振舞う倫理観にこそ価値があるのだと、心の態度を自分起点に変えてしまった。

 結果として女性は解放され、社会が変革した。クワントは「女性の権利云々」といった宣言は一言も発せず、抵抗も闘争もしていない。ただ、機嫌よく自分らしさを貫いただけだった。アジテーションもデモも暴動もない、ファッションによる鮮やかな革命である。