潔いブランディングと不可能を可能にするコラボレーションでさらなる成長へ
3.「グローバル化」
《ドレス「ミス・マフェット」を着るパティ・ボイドとローリングストーンズ》 1964年 Photograph by John French © John French / Victoria and Albert Museum, London
ブランディングということばがまだポピュラーではなかった時代から、クワントはブランディングを先駆けておこなっていた。自らが広告塔となって作品を着てメディアに登場したのもそうである。1966年にOBE(大英帝国勲章)を受勲したときに、帽子から靴、ドレスにいたるまで自分のブランドのアイテムを身に着け、世界中の新聞の一面を飾ったことは絶大なブランディング効果を発揮した。
《マリー・クワントのカンゴール製ベレー帽の広告》 1967年 Image courtesy of The Advertising Archives
同年にはデイジーマークを商標登録しているが、これこそが現在にいたるまで、生産・販売のライセンス契約のかなめとなっている。今では当たり前のブランドライセンスを誰よりも先駆けて成功させたのがマリー・クワントだった。
合成繊維などの新素材にも果敢にチャレンジし、当時の繊維産業に多大な貢献をしている。1963年に発表したPVD(ポリ塩化ビニール)を用いたウェッ
ストックボードを拠点とするアリゲーター・レインウェア社とのコラボによってマリークワントのレインコートは大ヒットする。ピカピカ人工素材、突き刺さるような色彩に、当時の人々は魅了された
1970年ごろ、クワントのデザインの対象はライフスタイル全般にも及び、ベッドカバーやシーツにも斬新さをもたらした。それまでは淡い色を使うのが「常識」だった分野に、紺色、紫、チェリー、赤、緑といった濃い色彩を取り入れたのだ。濃い色は「色泣き」しやすく技術的に難しかったのだが、それをクリアするよう製造会社に辛抱強く発破をかけ、会社の技術力を上げることにもつなげている。
1964年以降、型紙、レインウェア、アンダーウェア、ストッキングやタイツなどさまざまなメーカーと提携して、さらに手頃な価格帯の商品を世に送り出し、ファッションの民主化を推進していった
コラボ相手が「難しい」と言うことを、クワントはなぜかうまく成し遂げていく。「女性の二面性を表現する香水を作りたい」と調香師に依頼するときもそうだった。相手が「難しい」ということに対し、粘り強く希望と可能性を説き、無理強いはせず、相手の出方をにこにこと黙って待つのだ。すると相手が「しょうがないな、やってみるか」と折れてクワントのためにがんばり始めるのだ。結果、自分の希望を叶えながら相手を成長させていく。ビジネスウーマン必修の交渉力である。
