雪の日の悲劇
実朝は、家集『金槐和歌集』を残した歌人としても知られる。
将軍が和歌というと、政治をおろそかにして遊んでいるような印象を抱きがちだが、当時の和歌や蹴鞠は文化的な遊戯であると同時に、政治の道具でもあった。
後鳥羽も和歌の名手であり、蹴鞠の達人である。幕府のトップとして、朝廷と渡り合うために必要な教養であったという(坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人々』)。
実朝も和歌などを通して、後鳥羽と親密な関係を築いた。
実朝の官位は建暦元年(1211)正月に正三位、建保元年(1213)2月に正二位、建保4年(1216)6月に権中納言、建保6年(1218)正月に権大納言、3月に近衛大将を兼任しい、10月に内大臣、12月にはついに、右大臣にのぼりつめている。
この右大臣拝賀の儀式を行うために、実朝は建保7年(1219)正月27日の西の刻(午後6時頃)に御所を出て、鶴岡八幡宮を訪れた。この鶴岡八幡宮で歴史に残る大事件が起きる。
夜になり、神拝を終えた実朝を、源頼家の遺児・寛一郎演じる公暁(実朝の甥)が剣を取って、殺害したのだ。
享年28、この日の鎌倉は昼間は晴れていたが、夜になって大雪が降り、二尺余り(約60センチメートル)も積もっていたという。
ドラマのなかだけでも、大竹しのぶ演じる歩き巫女によるお告げを思い出し、雪の日は外に出ないでほしいと、心から願うばかりである。