マイクを握ったら離さないタイプだった?

 頼朝の挙兵後も、康信はしばらく京に留まり、頼朝が伊勢神宮に奉納する御願書の草案を献上するなど、頼朝を支えていた。

 康信が鎌倉に下ったのは寿永3年(1184)4月14日のことである。『吾妻鏡』同日条によれば、もともと関東に志があったところに、頼朝に招かれたという。

 ドラマでは頼朝の死後に剃髪している康信だが、このときにはもう出家していた。そのため、『吾妻鏡』では法名の「善信」で表記されることが多い。

 頼朝が問注所を設置すると、康信は初代執事(長官)に任じられた。

 問注所は、訴訟実務を行う鎌倉幕府の裁判機関である。問注記(原告・被告を取り調べたときの調書)の作成が主な仕事である。

 問注所ははじめ、頼朝の将軍御所の一部にあったが、騒動があったため、康信の邸宅に移された。だが、頼朝の死後、建久10年(1199)に将軍御所の別郭に新造された建物に、再び移転している(『吾妻鏡』同年4月1日条)。

 康信は音楽にも通じていたらしく、『吾妻鏡』建久5年(1194)6月11日条によれば、鶴岡八幡宮の神楽の演奏者である「伶人」の指揮も務めた。

 ドラマの康信からは想像しにくいが、『吾妻鏡』には酒に酔い、歌い続ける康信の姿も描かれている。

 文治2年(1186)12月1日、岡本信人が演じた千葉常胤が下総国から鎌倉に参上した。

 常胤は頼朝に酒を献上し、西侍(寝殿の西側にある侍の詰所)で宴が開かれた。

 酒席には頼朝と常胤の他にも、康信や、大野泰広演じる足立遠元、野添義弘が演じた安達盛長など、何名もの宿老が列した。

 酒宴は大変な盛会となったようで、参加者はみな大いに酔った。

 千葉常胤は、立ち上がって踊った。康信は「はやり歌」をたくさん歌ったたけでなく、催馬楽(宮廷貴族の遊宴などで歌われる歌謡の一種)も歌ったという。康信、47歳のときのことである。

『吾妻鏡』にわざわざ記されているということは、そうとう歌い続けたのではないだろうか。

 千葉常胤が踊り、康信が歌いまくる宴会――ぜひ、参加したいものである。