承久の乱で、味方の裏切りを阻止した?

 承久3年(1221)5月に勃発した承久の乱では、泰時とともにめざましい活躍をみせている。

 後鳥羽上皇が北条義時の追討を命じ、幕府が京への進撃を決めると、幕府軍は東海・東山・北陸の三道に分かれて上洛を目指した。時房は泰時、北条時氏(泰時の子)、足利義氏、山本耕史演じる三浦義村、千葉胤綱らと東海道大将軍として、十万余騎を率いて、出陣している。時房47歳のときのことである。

 幕府軍は、必ずしも一枚岩ではなかったようだ。

 東山道軍の大将軍である武田信光と小笠原長清ですら、「鎌倉方でも、京方でも、勝つ方につく」というつもりであったという。

 時房は、そのような状況をよくわかっていた。時房は「六ヶ国の守護職」を恩賞として提示し、裏切りを阻止したという(慈光寺本『承久記』)。

 その後、時房は瀬田(勢多)、泰時は宇治での激戦を制して6月15日に入京。承久の乱は幕府軍の勝利に終った。

 時房は、泰時とともに、かつては平氏の本拠地であり、当時は京都における幕府の拠点であった六波羅(京都市東山区)に入った。二人はそのまま在京し、時房は六波羅探題南方、泰時は六波羅探題北方として、戦後処理等にあたった。

 

連署とは?

 元仁元年(1224)6月に二代執権の兄・北条義時が死去すると、時房と泰時は鎌倉に呼び戻された。

 鎌倉に戻った時房と泰時は、政子から「軍営の御後見(鎌倉殿の補佐)」を命じられている。

 その結果、二人が執権に就き、幕府の公文書に連名で署名することから、二人目の執権を「連署」と称するようになった。以後、原則的に二名が執権に就く「複数執権制(執権・連署制)」となったという(田中大喜編著『図説 鎌倉幕府』)。

 なお、翌嘉禄元年(1225)の政子の死後に、泰時が、時房を連署として迎えたとする説もある。

 いずれにせよ、時房は初代連署とされ、死去するまでその地位にあり、幕府内で重きをなした。

 時房の死は、長きにわたり苦楽を共にした泰時よりも、2年早く訪れた。

 仁治元年(1240)正月23日、時房は急に病に罹り、泰時が見舞ったが、翌日、66歳で永遠の眠りに就いた。