武家政治の理想といわれた泰時

 三代執権となった泰時は、政子の死後、初代連署(両執権)に就任した時房とともに、執権政治を軌道に乗せていく。

 寛喜2年(1230)から翌年にかけて起こった「寛喜の大飢饉」ではみずからの守護国である伊豆・駿河の両国で出挙米を施すように指示する徳政を行い、貞永元年(1232)には、公平な裁判を目指して御成敗式目(貞永式目)を制定した。

 泰時は都市鎌倉の整備も進めている。鎌倉と六浦津の間の道を開削する工事に遅れが出た際には、泰時自ら土石を運んだと伝わる。

 また泰時は、後述する勧進聖による、和賀江島の港の築造にも協力した。

 仁治元年(1240)正月に時房が66歳で死去すると、泰時は後任の連署を置くこともないまま、2年後の仁治3年(1242)4月に病に罹り、6月15日に60歳で没した。

 泰時の治世はおおむね平和で、後世長く武家政治の理想と仰がれた。

 ドラマの泰時も、今は年若いため些か頼りない面も見られるが、迷いながら躓きながらも、名執権への道を歩んでいくのだろう。