勅撰歌人だった泰時

 ドラマでは誠実な人柄で、何でも器用にこなす泰時だが、『吾妻鏡』にもそんな姿を彷彿させる記事がみられる。

 泰時が13歳の時、鶴岡八幡宮で流鏑馬の儀が行われた際には、射芸に堪能な16人が選抜されたが、泰時もその一人に選ばれている。

 19歳のときには、大風によって鶴岡八幡宮の宮門が倒れ、民が飢饉を憂うなか、金子大地演じる源頼家が蹴鞠に耽るのをみかねて、頼家の近侍である中野能成に、諌言するようにうながしている。

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 これが頼家の耳に入って不興を買い、泰時は伊豆国北条に下った。

 そのとき北条の地は不作で、領民は飢饉に苦しんでいた。そこで泰時は貸し付けの証文を焼き、米や酒などを振る舞った。人々は手を合わせ、泰時の子孫の繁栄を祈ったという。

 ただし、『吾妻鏡』は北条氏による幕府支配を正当化するため、泰時を随所で顕彰しているともいわれ、この記事も脚色を疑う声もある。

 また泰時は勅撰歌人であった。

 泰時の詠歌は、『新勅撰和歌集』、『続後勅撰和歌集』、『続古今和歌集』『新拾遺和歌集』などの勅撰集に、二十余首が入集されている。

 

武人としての泰時

 泰時の初陣は、建仁3年(1203)9月に勃発した「比企氏の乱」だとみられている。泰時、21歳のときのことである。

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 建暦3年(1213)5月には、横田栄司演じる和田義盛らとの激闘「和田合戦」を戦い抜いている。

 鎌倉初の本格的市街戦である和田合戦において、31歳の泰時は、叔父の時房とともに若宮大路を守り、勝利に貢献した。

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 武人としての泰時のもっとも華々しい活躍は、彼が39歳のときの「承久の乱」だろう。

 承久3年(1221)、尾上松也演じる後鳥羽上皇が北条義時の追討を命じ、幕府は京への進撃を決めた。泰時や時房らが率いる幕府軍が京へ攻め上り、上皇方に圧勝している。

 泰時と時房は承久の乱の勝利後、京都の六波羅に入り、戦後処理を行った。これが、鎌倉幕府が京都に置いた西国統治機関「六波羅探題」の発足とされる。

 泰時は六波羅北方、時房は六波羅南方に就任し、朝廷との交渉や西国支配を担った。

 だが、元仁元年(1224)6月13日に父・義時が急死すると、泰時と時房は鎌倉に呼び戻された。

 泰時の異母弟には、義時の正室・伊賀の方(伊賀朝光の娘)が産んだ北条政村や、比企朝宗の娘(ドラマでは堀田真由演じる比奈)が産んだ北条朝時がおり、彼らも義時の後継者候補であったが、泰時は北条政子の後押しを受け、家督を相続し、三代執権に就任した。泰時、42歳のときのことである。

 義時の遺領の配分は、家督である泰時が行った。泰時は兄弟の融和を優先し、自分の相続は少なく、弟や妹たちには多く与えたという。