謀略でライバルを失脚させた?

 ドラマの知家は、道の修復など普請の現場にいる場面が多いが、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも、鹿島社(現在の鹿島神宮)の造営事業を命じられる記事が載っている。

『吾妻鏡』建久4年(1193)5月1日条によれば、鹿島社は20年に一度、造り替えることになっており、前年の建久3年(1192)が、その造り替えの年であった。

 ところが、社領を知行していた常陸の武士団である大掾一族の惣領・多気義幹らの怠慢で、大変に造営が遅れていた。

 そこで頼朝は知家を造営奉行に加え、造営工事を7月10日の祭りの前までに終わらせるように命じたという。

 上記の多気義幹と知家は、常陸国の有力武士として、国内で勢力を競っていた。

 この年の5月には、ドラマでは第23回「狩りと獲物」で描かれた曽我事件が起きており、知家はこの事件で参上しようとした際に、多気義幹を排除すべく奸謀を企てている。

 まず、知家は義幹のもとへ身分の低そうな者を送り、「知家が軍勢を動かし、義幹を討とうとしている」と嘘を吐かせた。

 そのため義幹は防戦の用意を整え、一族の者たちを集めて、多気山城(茨城県つくば市北条)に立て籠もった。国中は騒然となったという。

 さらに知家は再び義幹のもとへ使者を派遣し、「富士野の御旅館で狼藉があったとの噂がある。今から参上するので、同行されよ」と誘いをかけた。

 当然のことながら、義幹は同行を拒否し、よりいっそう防御の構えを強化した(『吾妻鏡』同年6月5日条)。

 すると、知家は頼朝に「多気義幹に野心あり」と訴えた。驚いた頼朝は義幹を召喚。知家と義幹の訴訟の対決が、頼朝の御前で行われた。

 義幹はうまく反論できず、常陸国筑波郡・南郡・北郡などの所領は没収され、失脚した。

 同年12月13日には、義幹の実弟・下妻弘幹(広幹)を、頼朝が知家に命じて、梟首させている。理由は、弘幹が北条時政に恨みを抱いたからだという。

『鎌倉殿の13人』の時代考証を務める坂井孝一氏は、知家の陰謀で失脚した義幹の弟が時政に恨みをもっていたということは、時政も知家の陰謀に関与していた可能性もあるのではないかと推測している(『曽我物語の史実と虚構』)。

 ドラマの二人からは想像しにくいが、知家と時政は、タッグを組んでいたのだろうか。