文=鷹橋 忍

修善寺本堂 写真=アフロ

頼朝の兄弟たち

 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、ついに源頼朝が亡くなった。治承4(1180)年の頼朝の挙兵に駆けつけた彼の異母弟たちも、今や生き残っているのは、新納慎也演じる阿野全成のみである。

 そこで今回は頼朝の兄弟たちの物語を取り上げたい。

 まず、頼朝には、二人の兄と六人の弟がいたとされる。

 長兄は源義平(1141~1160)、次兄は源朝長(1144~1160)といい、二人とも頼朝とは母親が違う。

 頼朝らの父・源義朝が平清盛に敗れた「平治の乱(1159年)」の後、義平は斬首され、朝長も自害、あるいは父・義朝に刺殺されたという。

 頼朝の同母(熱田大宮司・藤原季範の娘)の弟に、源希義(?~1180)がいる。

 希義は平治の乱後、土佐国に配流となったが、頼朝の挙兵により平家の追討を受け、寿永元年(1182)、31歳で討死している。頼朝の栄光の影に隠れた悲しい運命である。

 この希義以外にも「義門」という弟がいたとされるが、彼の事跡は不明である。

 頼朝には他にも、範頼((?~1193)、全成(1153~1203)、義円(1155~1181)、義経(1159~1189)の4人の異母弟が確認できる。

 ドラマにも登場したこの4人の頼朝の異母弟のなかで、迫田孝也が演じた源範頼だけが母親が違う。

 4人の異母弟のうち、最初にこの世から去ったのは、成河が演じた義円であった。

 

【義円】本当は鎌倉に下っていなかった?

 義円の母親は九条院の雑仕女・常盤御前で、全成と義経は同母の兄と弟となる。

 母の常盤は平治の乱の翌年、当時8歳の今若(全成)、6歳の乙若(義円)、2歳の牛若(義経)の3人を伴い、清盛のもとに出頭。

 清盛に助命を認められると、3人の子は、それぞれ別の寺院に送られた。

 義円は園城寺に入り、園城寺僧の八条宮円恵法親王(後白河院の皇子)の坊官(事務を担う僧)となった。当初は円成を名乗っていたが、義円と改名している。

 義円は治承5年(1181年)3月10日、美濃・尾張国境の墨俣での戦いに、杉本哲太が演じた叔父の源行家とともに、大将軍の一人として参戦した。ところが、平氏軍の高橋盛綱に討ち取られ、27歳の若さで亡くなっている。

 ドラマでは、義円はこの戦いに義経に陥れられる形で参戦したが、『平家物語』の異本の一つ『源平盛衰記』では、頼朝の指示により1000余騎を与えられ、行家の援護に向かったとされる。

 しかし実は、義円は鎌倉に下ったかどうかすら、定かでないのだ。この戦いも頼朝の命ではなく、独自に源行家に従ったものとみられている。