【阿野全成】甥の頼家の命による誅殺
ドラマでは、笑いと癒やしを与えてくれる阿野全成であるが、彼にはどんな悲運が待ち受けているのだろうか。
全成は平治の乱後、全成は京都近郊にある醍醐寺に入り、頼朝が挙兵するまでの間、僧侶として過ごした。彼は「隆超」、もしくは「隆起」という僧名を称したのちに、「全成」と名を改めたという。
ドラマでは穏やかな印象の全成だが、勇猛な僧として知られ、「悪禅師」と呼ばれた。
『吾妻鏡』によれば、全成は、治承4年に以仁王の令旨が下されたのを伝え聞くと、密かに醍醐寺を脱出。修行僧の廻国のふりをして下向し、同年10月1日に鎌倉入を目前にした下総国鷲沼の頼朝の宿所を訪れた。頼朝は全成の志に、涙ながらに感謝したという。
時期は定かでないが、北条時政の娘・安房局を妻に迎え(ドラマでは宮澤エマ演じる実衣)、駿河国阿野庄(静岡県沼津市)を領し、阿野氏を称した。
建久3年(1192)8月に、頼朝の妻・北条政子が次男・千幡(のちの源実朝)を出産すると、政子の妹である全成の妻・阿波局が乳母に選ばれ、全成も乳母夫となった。千幡は、北条氏が中心となって育てた。
一方、頼朝の嫡男・源頼家の乳母・乳母夫は、比企氏が務めていた。
これは頼朝の死後、頼家やその子・一幡を擁立する比企氏と、千幡を支える北条氏との間に抗争を生むことになる。
全成が武将として活躍をすることはなく、政治的な活動の記録も見られない。全成は僧として生き、そのおかげで頼朝による粛清を免れたともいえる(細川重男『頼朝の武士団』)。
だが、全成は頼朝の死後、頼朝の跡を継いだ源頼家の命によって、滅ばされることとなる。
『吾妻鏡』によれば、建仁3年(1203)5月、全成は突如として、謀反の疑いで捕らえらた。頼家は阿波局の身柄も拘束しようとしたが、政子によって阻まれている。
全成は常陸国に配流されたのち、翌6月に頼家の命を受けた市原隼人演じる八田知家によって、誅殺された。享年51。
7月には京都の東山延年寺にいた全成の三男・頼全も殺害されている。
この事件に関しては、謀反計画の存在自体が疑わしいという見方もあるが、いずれにせよ全成は、甥の頼家によって葬られたのだった。