梶原景時の滅亡
建久10年(1199)正月、頼朝が死去した。鎌倉殿と二代将軍の座には、頼朝の嫡男・源頼家が就き、景時は頼家にも重用された。十三人の合議制のメンバーにも選ばれている。
しかし、景時と梶原一族は滅亡することになる。
同年10月、頼朝の側近であった結城朝光の「頼朝が亡くなったとき、自分も出家すべきだった」、「忠臣は二君に仕えず」などの発言を、源頼家への誹謗だとして、景時が頼家に讒訴したことがきっかけとなり、66人の御家人による景時の弾劾状が作られた。
景時は鎌倉から追放され、翌建久11年(1120)正月、梶原一族を引き連れて京都へ向かった。だが、その途中の駿河国で、激しい戦闘の末に、一族もろとも討ち死にしている。
梶原景時の滅亡には謎が多く、北条氏の陰謀との見方もある。ドラマでは謎が解けるのだろうか。
梶原景時ゆかりの地
●御霊神社(坂ノ下)
源賴朝が鎌倉入りを果たす前からあった歴史ある神社。
当初は鎌倉党の先祖全員を祀っていたが、やがて、梶原景時の先祖である鎌倉権五郎景正のみを祀るようになった。景正には、源義家の下で後三年合戦に出陣し、右目を射られたまま、ひるまず勇戦したという伝説が残っている。
景正の命日である9月18日には、毎年、面掛行列(めんかけぎょうれつ)という、仮面を付けた十人衆が神輿の前をねり歩く、お祭りが行われる。
●御霊神社(梶原)
梶原景時の本拠地である梶原地区にも、御霊神社がある。
こちらも、鎌倉権五郎景政を祀っており、梶原景時と伝わる像も安置されている。
近くには、梶原景時一族のものと伝わる墓もある。景時は駿河で討死しているため、おそらく実際の墓ではないといわれるが、景時らの死を悼むように、四基の五輪塔が並び立っている。