義経との「逆櫓論争」はなかった?

 その後、景時は源義仲や平家の追討のため、西国を転戦した。

 義仲の追討後、景時、安田義定、頼朝の異母弟の源範頼と源義経、一条忠頼の5人が、頼朝に戦勝を報告するために飛脚を送ったが、景時の飛脚だけが、討ち取った者や捕虜とした者のリストを持参していた。頼朝は景時の配慮に、おおいに感心している。

 源範頼と義経が平家追討のため西国に派遣された際には、軍奉行として、侍所別当の和田義盛とともに景時も出陣した。

 元暦2年(1185)2月の屋島合戦の前には、景時と義経の間に、いわゆる「逆櫓論争」が起こったと伝わる。

屋島古戦場 写真=アフロ

『源平盛衰記』によれば、屋島(高知県高松市)に拠る平家軍を攻撃するために、義経は軍議を開いた。その際に景時は、進退が自在にできるよう、船尾だけでなく舳先にも逆櫓をつけることを進言した。

 ところが、義経は「最初から逃げることを考えていては勝てない」と却下。それに対して景時は「後先を顧みないのは猪武者である」と反論し、義経と対立したという。

 しかし、このとき景時が参加していたのは範頼の軍であり、逆櫓論争の説話は創作だといわれる。

 同年3月の壇ノ浦の合戦で平家が滅亡すると、景時は戦後処理を担った。

 逆櫓論争はなかったようだが、景時と義経の対立はあったようだ。

『吾妻鏡』同年4月21日条によれば、景時は頼朝に「義経は東国武士が力を合わせて勝ち取った戦果を、自分一人の功績と考えている。武士たちも義経に従う気持ちは持ち合わせていない。諫めると身の災いとなり、刑罰を受けかねない状況だ」など、義経の「不義」を讒言している。

 この諫言は景時の個人的怨恨によるものとする見方もあるが、義経と他の御家人たちの間には、けっして少なくない対立があったものと思われる。

 景時の讒言に対して、義経を擁護する史料は知られておらず、『吾妻鏡』でも「義経は独自の考えをもっていて、頼朝の言いつけを守らない。勝手に物事を執り行うので、景時に限らず、人々は恨みを抱いているという」と記している。

 景時は、御家人を統制し、彼らの行動を監視するという侍所別当の役目に、ただ忠実に従っただけなのかもしれない。