豊臣秀吉の弟・秀長の居城「大和郡山城」を、徳川幕府が重要視した理由 大和郡山城 撮影/西股 総生(以下同) (画像1/9) 木造で復興された隅櫓は近鉄線の車窓からもよく目立つが… (画像2/9) 台地続きになる城の北側に掘られた巨大な空堀。この堀を見た時、声が出た「うおっ」 (画像3/9) 秀長が築いた天守台。五重天守とする説もあるがサイズから見て四重、ただしかなり凝ったデザインの天守だったようだ (画像4/9) 築城に際しては石材が片端からかき集められたらしく、天守台の石垣には転用石材が多い (画像5/9) 不揃いな石材のサイズや未発達な算木積みなど、本丸の石垣は秀長時代の技法を伝える (画像6/9) 追手門の巨大な枡形は100万石にふさわしい。外側に高麗門を伴わないのも豊臣期のスタイル。復興建物よりそちらの方が本当の見どころだ (画像7/9) 石垣の中には元和年間以降の技法を示す箇所もある。譜代大名時代の改修だろう (画像8/9) 整備の際に石垣の中から「救出」された石塔類 (画像9/9) 豊臣秀吉の弟・秀長の居城「大和郡山城」を、徳川幕府が重要視した理由 この写真の記事を読む