未曾有の危機、去る【4月10日~4月13日】

 その後の二日間は、「神明ノ所為(神仏の加護)」のように北風が猛烈に吹き、刀伊人も上陸できなかった。

 そのため大宰府側では、兵船38艘の急造がかない、刀伊軍の来襲に備えることができた。

 刀伊軍が4月11日未明に筑前国志摩郡船越津(現糸島市志摩船越)に姿を見せた時には、派遣された大宰府方の精兵が、すでに待ち受けていた。

 4月12日の酉剋(午後5時~7時)、刀伊軍は上陸し、大宰府方の兵と激しい戦闘となった。

 その結果、40余人の刀伊軍の兵が矢に当たって死去し、2人が捕虜となった。

 勝ちに乗じて大宰府軍は、平致行や平為賢らが、船数十艘で追撃する。

 すると隆家は、「先ず、壱岐・対馬等の島に至るように。日本国境に限って襲撃するように。新羅(高麗)国境に入ることのないように」と誡めたという(『小右記』寛仁3年4月25日条)。

 翌4月13日、刀伊人は肥前国松浦郡に出没し、沿岸の村々で劫掠を行なった。

 これを前肥前介(さきのひぜんのすけ)源知が、郡内の兵を率いて退却させた。ついに刀伊軍は海の向こうに帰っていったという。

 こうして、隆家らは刀伊軍の撃退に成功し、危機は去ったのだ。

 隆家は実資に、「異国人は去りました」としたためた書状を送ったという。