刀伊の入寇、はじまる 【3月28日】
刀伊の入寇の推移は、倉本一宏『藤原伊周・隆家 ――禍福は糾へる纏のごとし――』、関幸彦『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』などによれば、以下の通りである。
まず、3月28日、刀伊の兵船50余艘が対馬島を襲来し、殺人、拉致、放火の蛮行に及んだ。
対馬島では18人が殺害され、116人が捕虜となっている。
同日、壱岐島も蹂躙されている。壱岐守の藤原理忠を中心に防戦するも、148人が殺害、239人が捕虜となる大打撃を蒙った。藤原理忠も殺されている。
「賊徒」の来襲は対馬島から逃れた対馬守遠晴により、4月7日に大宰府に伝えられた。
また、壱岐島で賊徒を三度も撃退したとされる壱岐島分寺講師(国分寺に置かれた僧侶)常覚も、同日に大宰府に着き、壱岐守藤原理忠をはじめ、多くの島民が殺害されたことを告げた。
怡土郡、志摩郡、早良郡、蹂躙される【4月7日】
大宰府に、刀伊の来襲の報が伝えられた4月7日、刀伊の兵船は筑前国怡土郡に上陸。怡土郡は殺害49人、拉致216人、馬牛33疋頭という被害を受けた。
同日、志摩郡と早良郡にも攻め入り、それぞれ殺害112人と19人、拉致435人と44人、馬牛74疋頭の被害が出ている。
突然の出来事ゆえに日本側は迎撃の体制は整っていなかったが、志摩郡の文室忠光が急ぎ派遣された大宰府の兵と共に防戦。賊徒数十人を倒し、撃退したという。
この日、大宰府は状況を朝廷に伝えるため、解文(報告書)を作成し、飛駅使(早馬)を都へ送った。
隆家も親しい間柄の実資に、「刀伊国の者50余艘が対馬島の来着し、殺人・放火しています。要害を警固し、兵船を差し遣わします。大宰府は飛駅で言上します(倉本一宏『現代語訳 小右記10』)」としたためた私信を送っている。
これらと、翌4月8日に送った飛駅使が都に到着するのは、4月17日のことである。