最期まで飄々と
惟規は寛弘8年(1011)正月、六位蔵人を解かれ、従五以下に叙爵された。
一方、父・為時は、越後守に補任され、任地に赴いている。
60歳を越えた父の身を案じたのか、惟規も妻とともに越後に下ったが、同年の秋頃、その地で病没した(今井源衛『人物叢書 紫式部』)。
『今昔物語集』巻三十一 第二十八によれば、惟規が臨終間近となった時、為時は「この世のことは諦め、極楽往生を念ずるがよい」と言い、徳の高い僧を招いた。
僧は惟規の耳元で、「人は死ねば、次の生が定まるまでの間は、『中有』という、鳥や獣さえもいないはるかな広野を、ただ一人進みます。その心細さ、人恋しさが、いかに耐えがたいものか、想像してください」と伝えた。
すると、惟規は、「中有の旅の途中には、嵐に散り舞う紅葉、風に靡く薄の下で鳴く鈴虫などの声は聞こえませんか」と問うた。
「何のために、そんなことをお訊きになるのですか」と、僧は問い返す。
「それを見て、心を慰めましょう」と、惟規が息絶え絶えに答えると、僧は「狂気の沙汰だ」と言って、その場を立ち去ってしまった。
その後は、為時が見守った。
惟規が何か書きたそうなので、筆と紙を与えると、
都にもわびしき人のあまたあれば なおこのたびはいかむとぞ思ふ
(わびしく都にいて、私を待ってくれる人も多く存在するのですから、何としてでもこの旅を生き抜き、もう一度、都に帰りたいと思います)
と綴った。
だが、最後の「ふ」の字を書き終える前に息絶えてしまったため、為時が書き加えたという。
飄々とした惟規らしい最期である。