「頗る年長」で蔵人に

 惟規は寛弘元年(1004)から少内記を務めた(上原作和『紫式部伝――平安王朝百年を見つめた生涯』)。

 少内記は正七位相当官で、位記(位階を授かる者に与えられる文書)を書くなど、宮廷の記録事務を担う(紫式部著/南波浩校注『紫式部集紫式部集 付大弐三位集・藤原惟規集』)。

 下級役人であった惟規であるが、藤原道長の日記『御堂関白記』寛弘4年(1007)正月13日条によれば、この日に行なわれた「蔵人定」により、六位蔵人に補された。

 蔵人は、天皇の秘書的役割を果たす要職だ。

 道長は『御堂関白記』の中で惟規を、「頗る年長で、蔵人に相応しい」と称しており、この時、33~35歳くらいだったと考えられている。

 また、紫式部は寛弘2年(1005)、もしくは寛弘3年(1006)の末に、中宮彰子に出仕しており、惟規の人事は、紫式部の出仕と一体化のものであったと見られている(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。

 

惟規の失敗談

 惟規には、失敗談がいくつか残っている。

 たとえば、秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』寛弘5年(1008)12月15日条によれば、内裏の御仏名結願にあたり、奉仕した僧侶たちに普く分配する綿を、惟規は一人に渡してしまい、他の僧侶たちが奪い取りあった。

 実資は、「蔵人は、故実を失したようなものだ」と記している。

 失敗ではないが、間の悪かった話も、『紫式部日記』に見える。

 同年の大晦日の夜、内裏に盗賊が押し入った。

 紫式部は、おそらく惟規に手柄を立てるチャンスを与えようと考え(福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』)、惟規を呼ぶように頼んでいる。

 ところが、惟規はすでに退出していた。

 紫式部は、「この上なく情けない」と綴っている。